Shiki’s Weblog
『土佐日記』を訳しなおしてみる ― その3
2020/01/06, 加筆・改訂: 2020/1/20, 1/25(五日※1, 十六日), 1/26(九日), 2/4(二六日)
その1、その2につづいて『土佐日記』から。今回は、『土佐日記』の1月22日からさいごまでを訳しなおしてみました。これで、さいしょの12月21日からさいごの2月16日までのぶん、すべてになります。
1/22
22日。ゆうべのとまりから、べつのとまりにむかってゆく。とおくむこうに山がみえる。
9歳ほどのおとこのこで、としよりも、おさなくみえるこがいた。そのこが、ふねをこぐとともに山もすすむようにみえるのをみて、(その)ふしぎなようすを(※)うたによんだ。そのうたは、
こきてゆく ふねにてみれは あしひきの やまさへゆくを まつはしらすや
といった。おさないこどものことばとしては、似あっている。
きょうは海があれていて、磯には雪がふり、波の花がさいた。あるひとがよんだのは、
なみとのみ ひとつにきけと いろみれは ゆきとはなとに まかひけるかな
※ 「あやしきこと」=こどもがうたをよんだことを著者がおどろいたとする説もあります。ここでは、山がうごいているようにみえることを、こどもがふしぎがっているとする説をとりました。こどものときに、月がついてくるのをふしぎにおもったりするのと、おなじ感じだとおもいます。参考: 「星は、なぜ、人が動くとついてくるように感じられるのですか?」
1/23
23日。日がてってから、くもった。「このあたりは、海賊のおそれがある」というので、神仏にいのった。
1/24
24日。きのうの(ところと)おなじところにいる。
1/25
25日。かじとりたちが「北風がよくない」というので、ふねをすすめられない。「海賊がおってくる」といううわさが、たえずきこえてくる。
1/26 陽錯
ほんとうだろうか。「海賊がおいつく」というので、夜なかごろから、ふねをすすめて、こいでいったとちゅうに「たむけ」をするところがあった。
かじとりに「ぬさ」をさしあげさせると、ぬさが東へちったので、かじとりが申しあげたことは、 「このぬさのちるほうに、ふねをすみやかに、こがせてください」 と申しあげた。これをきいて、あるおんなのこよんだのは、
わたつみの ちふりのかみに たむけする ぬさのおひか やますふかなん
とよんだ。
そうしているあいだに、風がよくなり、かじとりは、とてもほこらしげに、帆をあげたりしてよろこんだ。その音をきいて、こどもも女も、いつかはと、おもっていたからだろう。とてもよろこんだ。そのなかの「淡路のおばあさん」というひとのよんだうたは、
をひかせの ふきぬるときは ゆくふねの ほてうちてこそ うれしかりけれ
と、天気のことについて(そのよろこびを)神につたえた(※)。
※ 「ていけのことにつけつゝいのる」=「いのる」の主語がだれかは諸説あります。まえの「とぞ」できれずそのまま淡路のおばあさんとする説、かじとりとする説(『全注釈』)、「わらはもおむなも」ととる説などがあります。
「いのる」を「願をたてる」という意味でとろうとすると、解釈がむずかしくなってしまうようです。「いのる」の語源は「斎宣る」といわれます。もともとは「神にいう」ということでしょう。「いのる」を「感謝を神仏にいう」という意味でとると、理屈なしに主語は淡路のおばあさんとなりそうです。訳もそうしておきました。
1/27
27日。風がふき、波もあらいので、ふねをすすめられない。だれもかれも、とてもなげいた。
男たちの気ばらしに漢詩に「日をのぞめば、都とおし」などということのいきさつをきいて、ある女がよんだうたは、
ひをたにも あまくもちかく みるものを みやこへとおもふ みちのはるけさ
また、あるひとのよんだのは、
ふくかせの たえぬるかきりし たちくれは なみちはいとゝ はるけかりけり
昼のあいだ風がやまなかった。弾指をして、ねた。
1/28
28日。夜どおし雨がやまなかった。けさも。
1/29 甲子
29日。ふねをすすめていく。うららかに(ひが)てって、こいでいく。
爪がとてもながくなったのをみて、日をかぞえると、きょうは(爪をきってよい丑の日ではなく)子の日だったので、(爪は)きらなかった。
睦月なので、京の子日の(小松びきの)ことをいいだして、
「小松があったらなぁ」 といっても、海のなかなので、むずかしい。ある女がかいてみせたうたは、
おほつかな けふはねのひか あまならは うみまつをたに ひかましものを
といった。(詞書は)「うみにて子日のうた」では、いかがだろうか(※1)。
また、あるひとがよんだうたは、
けふなれと わかなもつます かすかのゝ わかこきわたる うらになけれは
こういいながら、こぎすすめる。
すばらしいところにふねをよせて、
「ここはどこ」 と問うと、
「土佐のとまり」 といった。むかし、土佐というところにすんでいた女がこのふねにまじっていた。その女がいうには、
「むかし、すこしのあいだいたところの、『なくひ(※2)』だ。あわれ(※3)」 といって、よんだうたは、
としころを すみしところの なにしおへは きよるなみをも あはれとそみる
といった。
※1 「うみにて子日のうたにてはいかゝあらん」=詞書の提案と解釈する通説によりました。
※2 「なくい」=『新潮日本古典集成〈新装版〉 土佐日記 貫之集』では、意味については「後考をまつ」としている。
※3 「あはれ」=かなしいほうのあわれでしょうか。「子の日」→「小松」→「土佐」までくると、なくなったおんなのこを、おもいだしていそうです。解釈は、諸説あるようです。
1/30
30日。雨も風もふかない。「海賊は夜うごきまわらない」ときいて、夜なかごろに、ふねをすすめて、阿波の水門をわたった。夜なかなので、西も東もみえない。男も女もひたすら神仏にいのって、この水門をわたりきった。午前5時ごろに、沼島というところをすぎて、多奈川というところをわたった。ひたすらいそいで、和泉の灘というところについた。きょうは、海に、波のようなものはない。神仏のめぐみをおうけしているようだ。
きょうで、ふねにのった日からかぞえると、39日になってしまった。もう和泉の国にきたので、海賊はものでもない。
2/1
二月一日。あさのあいだ、雨がふる。正午ごろに、やんだので、和泉の灘というところからすすんで、こいでゆく。海のうえは、きのうとおなじで風も波もみえない。
黒崎の松原をへてすすむ。(黒崎は、)ところのなまえはくろく、松の色はあおく、磯の波は雪のように、貝のいろは蘇芳に、五色(※1)にいま一色だけたりない。
そうしているあいだに、きょうは、箱の浦というところから、綱でひいてすすむ。こうしてすすむあいだに、あるひとがよんだうたは、
たまくしけは このうらなみ たゝぬひは うみをかゝみと たれかみさらん
また、ふなぎみがいわれるには、
「この月までなってしまったこと」 となげいて、
「くるしさにたえられず、ひともいうこと」(※2) と、気ばらしにいったのは、
ひくふねの つなてやなかき はるのひを よそかいかまて われはへにけり
きいたひとはおもいそうだ。
「なぜ、ただ(そのままの)ことばで(いう)」 (そう)ひそかにいうにちがいない。(でも、)
「ふなぎみが、なんとかひねりだした、よいとおもえることばを。おうらみになるだろう」 とおもって、口をつぐんでやめた。
きゅうに風と波がたかくなって、ここに、とどまった。
※1 「五色」=黒、青、白、赤、黄。だそう。
※2 「くるしきにたへすしてひともいふことゝて」=「ひともいふこと」だけをふなぎみのことばとする説もあります。1月29日とおなじで、じっさいには詞書だとすると、「くるしき~」からでしょうか。すこしずつ貫之が詞書のかきかたをおしえているようで、おもしろい感じもします。
2/2
二日。雨風がやまない。昼も夜もずっと神仏(のめぐみ)をいのる。
2/3
三日。海のうえは、きのうとかわりなく、ふねをすすめられない。風がふきやまないことには、岸に波がたってはかえる。これにつけて、よんだうたは、
をゝよりて かひなきものは おちつもる なみたのたまを ぬかぬなりけり
こうして、きょうは暮れた。
2/4
四日。かじとりが、
「きょうは風と雲のようすが、はなはだわるい」 といって、ふねをすすめさせなかった。しかし、いちにちじゅう、波風はたたなかった。このかじとりは、日和もはかれない、おろかものだった。
このとまりの浜には、さまざまなうるわしい貝や石などがたくさんある。それで、ただむかしのひとをおもいだしながら、ふねのひとがよんだのは、
よするなみ うちもよせなむ わかこふる ひとわすれかひ おりてひろはん
といったら、あるひとが、たえられずに、ふねの気ばらしによんだのは、
わすれかひ ゝろひしもせし ゝらたまを こふるをたにも かたみとおもはん
といった。
おんなのこのためには、親はおさなくなってしまうのだろう。「(しら)たまでもなかったろうに」とひとはいうだろうか。けれども、「(はやく)しんだこは顔だちがうつくしい」ということもある。
まだおなじところで、日がたつことをなげいて、ある女がよんだうたは、
てをひてゝ さむさもしらぬ いつみにそ くむとはなしに ひころへにける
2/5
五日。きょう、やっとのことで和泉の灘から小津のとまりをめざす。松原は、目でおえないほど、はるかとおくまでつづいている。だれもかれも、つらくて、よんだうたは、
ゆけとなほ ゆきやられぬは いもかうむ をつのうらなる きしのまつはら
こういいながら、すすむほどに、
「ふねをはやくこげ。日もよいときに」 とうながすと、かじとりが、ふねのこどもたちにいうには、
みふねより おふせたふなり あさきたの いてこぬさきに つなてはやひけ (ふねのかたから、おふせをたまわった。朝、北(風)のでてくるまえに、綱ではやくひけ)
といった。このことばはうたのようだが、かじとりから、しぜんにでてきたことばだ。かじとりは、うたのようなことばをいおうとは、まったくおもっていない。きいたひとが、
「みょうに、うたのようにいったなぁ」 とかきだしてみると、ほんとうに31文字だった(※1)。
きょうは、
「波たつな」 とひとびとが、一日じゅう、いのったおかげか、風も波もたたなかった。
まもなく、カモメがむれになって、うかんで、あそんでいるところがあった。京がちかづくよろこびのあまり、あるこがよんだうたは、
いのりくる かさまともふを あやなくも かもめさへたに なみとみゆらん
といってすすむあいだに、石津というところの松原がすばらしくて、浜辺はとおく(までつづいている)。
それから、住吉のあたりをこいでゆく。あるひとのよんだうたは、
いまみてそ みをはしりぬる すみのえの まつよりさきに われはへにけり
ここに、こをなくした母が、一日もほんのわずかなあいだも、わすれられなくて、よんだのは、
すみのえに ふねさしよせよ わすれくさ しるしありやと つみてゆくへく
と。
「すっかりわすれてしまおうということではなく、おもいしたう気もちを、すこしのあいだやすめて、また、おもいしたう力にしようというのだろう」
そういって、ながめながらすすんでいくあいだに、おもいがけず、風がふいて、こいでも、こいでも、うしろへさがりに、さがって、もうすこしで、しずみそうになった。かじとりがいうには、
「この住吉の明神は例の神だ。ほしいものがおありになるのだろう」 とは、いまめいたものだ。すると、
「ぬさをさしあげてください」 といった。いうとおりに、ぬさをさしあげた。そうして、さしあげたのだが、まったく風はやまず、ますますふいて、(波も)ますますたって、風も波もあぶないので、かじとりがまたいうには、
「ぬさには、みこころがすすまないので、このふねもすすみません。もっと、うれしいとおもわれるようなものを、さしあげてください」 という。また、いうとおりに、「どうしようか」と(かんがえて)、
「目でさえふたつある。ただひとつしたない鏡をさしあげる」 と、海にしずめて、がっかりする。すると、とたんに、海は鏡のおもてのようになったので、あるひとがよんだうたは、
ちはやふる かみのこゝろを あるゝうみに かゝみをいれて かつみつるかな
いたくて(※2)、「住之江」「わすれ草」「岸の姫松」などと(うたに)いう神ではないな。目にはっきり、鏡に神のこころがうつってみえた。かじとりのこころは、かみのこころなのであった。
※1 「けに みそもしあまりなりけり」=1月18日は、37文字。1月21日も、五・七からはずれて、八・八というような形式。きのうは「かたゐ」とまでいわれた。うたをいいたそうで、うまくいえないかじとりから、たまたま31文字のことばがでてきた。18日はだれとは明記していませんでしたが、そんなようすです。
※2 「いたく」=いたい神かも。一月七日にも「これをのみいたかり」というのがありました。あとで、かじとりが川ぞこに鏡をあさりにいったりしていないとよいのですが。
2/6
2月6日。澪標のもとからすすんで、難波について、川すそにはいる。ひとびとみな、おばあさんも、あじいさんも、ひたいに手をあてて、よろこぶこと、このうえなかった。あのふな酔いの淡路島のおばあさんも、
「都がちかくなった」 というのをよろこんで、船底から頭をもちあげて、こういった。
いつしかと いふせかりつる なにはかた あしこきそけて みふねきにけり
とても意外なひとがいったので、ひとびともめずらしくおもった。そのなかで、気分のすぐれない、ふなぎみが、とても気にいられて、
「ふな酔いされていたお顔とはまるでちがいますね」 といった。
2/7
七日。きょうは、川すそにふねがいりたってこぎのぼるにも、川の水が干いてこまりくるしむ。ふねをのぼらせるのが、とてもむずかしい。
そうしているあいだに、病気のふなぎみは、もともと、みやびていないひとで、きのうの(淡路島のおばあさんの)ようなことをまったくしらない。それでも、淡路のおばあさんのうたを気にいって、都のほこりもあるのだろう。やっとのことで、へんなうたをひねりだした。そのうたは、
きときては かはのほりちの みつをあさ みふねもわかみも なつむけふかな
これは、やまいをしているから、よんだのだろう。(この)ひとが、(この)うたにまんぞくできずに、もうひとつ、
とくとおもふ ふねなやますは わかために みつのこゝろの あさきなりけり
このうたは、都にちかくなった、よころびにたえず、いったのでしょう。
「淡路のおばあさまのうたには、およばない。ざんねんな。いわなければ、よかった」 と、くやしがっているうちに、夜になって、ねてしまった。
2/8 斎日
八日。なお、川のぼりにくるしんで、鳥飼の御牧というあたりにとまる。こよい、ふなぎみは、例のやまいがおきて、とてもくるしむ。
あるひとが、しんせんなものをもってきた。米でおかえしをする。男たちが、こっそりいう。「『こめつぶで、モツをつる』と。」
こうしたことが、ところどころであった。きょうは、節忌をするので、さかなは不用(※)。
※ 1月14日にも斎日の節忌のはなしがでてきました。いやみをいわれているようだけれど、きょうは一日、節忌をするのに、わざわざ米をあげているんだよ、という感じでしょうか。
2/9
九日。まちどおしくて、(夜が)あけるまえから、ふねをひきつつのぼっても、川の水がないので、膝であるくくらいにしかすすめない。こうしているあいだに、「わだのとまりの分かれのところ」というところにきた。米や魚などをこわれれば、(ほどこしを)おこなった。
そうして、ふねをひいてのぼるうちに、渚の院というところをみつつすすんだ。この院は、むかしにおもいをはせてみれば、すばらしかったところだ(※1)。うしろにある丘には松の木々があり、なかの庭には、梅の花がさいている。
ここでひとびとがいうには、ここは、むかし、なだかくきこえたところだそうだ。故惟喬親王のおともで故在原業平の中将が、
よのなかに たへてさくらの さかさらは ゝるのこゝろは のとけからまし
といううたをよんだところということだ。
こんにち、きょう、あるひとがここにあったうたをよんだ。
ちよへたる まつはあれと いにしへの こゑのさむさは かはらさりけり
また、あるひとがよんだのは、
きみこひて よをふるやとの むめのはな むかしのかにそ なほにほひける
といいながら、都にちかづくことを、よろこびながらのぼった。
こうしてのぼるひとびとのなかに、……京よりくだったときには、だれにもこどもがなかった……ついた国でこどもをうんだひとびとがいて、いっしょになる。どのひとも(※2)、ふねのとまるところで、こどもをだきながら、のりおりする。それをみて、なくなった子の母はかなしみにたえられず、
なかりしも ありつゝかへる ひとのこを ありしもなくて くるかゝなしさ
といって、ないた。(子の)父も、これをきいて、どうだったろうか。
(かなしい)こうしたできごとも、(かなしい)うたも、このんでそうなるのではない。唐でも、このくにでも、おもうことにたえられないときにでてくることのようだ。
こよいは、鵜殿というところにとまる。
※1 「その院むかしをおもひやりてみれは おもしろかりけるところなり」=このときには院のあったばしょは荒廃してしまっています。
※2 「みなひと」= 「そのひとたちはみんな」でも、ただ「みんな」でもなく、という『古典再入門―『土佐日記』を入りぐちにして』の説明によりました。
2/10
十日。さしさわりのあることがあって、(川を)のぼらなかった。
2/11
11日。雨がほんのわずかにふって、やんだ。そうして、のぼっていくと、東のほうに山がよこたわっているのをみて、ひとにきくと、
「八幡の宮」 という。これをきいて、よろこんで、ひとびとはおがませていただいた。山崎の橋がみえる。うれしくてしかたない。
さて、相應寺のほとりにすこしのあいだふねをとめて、あれこれときめることがあった。この寺の岸のほとりに柳がたくさんあった。あるひとが、この柳のかげが川の底にうつっているのをみて、よんだうたは、
さゝれなみ よするあやをは あをやきの かけのいとして おるかとそみる
2/12
12日。山崎にとまった。
2/13
13日。なお山崎に。
2/14
14日。雨がふる。きょう、くるまを京にとりに(ひとを)やる。
2/15
15日。きょう、くるまがひかれてきた。ふねのうっとうしさに(たえかねて)、ふねから、ひとの家にうつった。そのひとの家では、(来訪を)よろこんでいるように、もてなしてくれた。そのあるじの、また、もてなしがよいのをみると、(わたしのほうは)なさけなくおもわれた(※)。いろいろとおかえしをした。家のひとのふるまいはよく、うやうやしかった。
※ うたておもほゆ=「かえってわずらわしくおもった」とする説もあります。一月四日の貫之の心情をおもうと、「たいしたおかえしをできないことをなさけなくおもった」とするのが、しぜんな感じがします。けれども、この翌日のようすからは、「饗」のわずらわしさも感じられます。ここでは、ふなぎみからよせてもらったというながれから、前者の解釈にしておきました。
2/16
16日。きょうのゆうがた、京にのぼる。ついでにみると、山崎の小櫃の絵も「まかりのおほちのかた(※1)」もかわっていない。「うっているひとのこころは、(むかしのままか)わからない」とはいう。
そうして京へすすんでいくとちゅう、島坂でひとのもてなしをうけた。いつもは、あるはずがないことだ。(国へ)たちゆくときよりも、もどってきたときのほうが、ひとがなにかといる(※2)。これにも、おかえしをした。
夜になってから京にはいろうとおもい、いそぐこともなくいると、月がでてきた。桂川を月のあかりのなかをわたる。ひとびとがいうには、
「この川は飛鳥川ではないので、(川の)淵と瀬もまったくかわっていない」 といって、あるひとがよんだうたは、
ひさかたの つきにおひたる かつらかは そこなるかけも かはらさりけり
また、あるひとがいったのは、
あまくもの はるかなりつる かつらかは そてをひてゝも わたりぬるかな
また、あるひとがよんだ。
かつらかは わかこゝろにも かよはねと おなしふかさに なかるへらなり
京のうれしさのあまり、うたもあまりにおおかった。夜がふけてからきたので、ところどころみえない。京にいりたって、うれしかった。
家について門をはいると、月があかるいので、とてもよくようすがみえた。きいていたよりも、ひどく、どうしようもなく、いたんでこわれている。家に(くわえて、)あずけていたひとのこころも、あれてしまっているのだろう。
(あるひとがいう。)
「中垣はあるけれど、ひとつの家のようになっているので(※3)、(となりのあなたが)のぞんであずかったのだ。」
(となりのひとは、こころもあれていて、)
「そうだが、たよりがあれば、(任国まで)ものもとぎれることなく(※4)おくったのだ(※5)。こよい、そんなこと」 と、おおきな声で(さえぎって、あるひとに)なにもいわせない(※6)。(となりのひとは、)とてもつめたくみえても、こころざしはしようとする(※7)。
ところで、池のようにくぼんで水のたまったところがある。ほとりには、松もあった。五、六年のうちに、千年もすぎたのだろうか。(松の)はんぶんは、なくなってしまっていた。あらたに生えてきたのも、まざっている。およそなにもかも、あれはててしまっているので、「ひどい」とひとびとはいう。
おもいだせずにいることなどなく、おもいかえすなかでも、この家にうまれたおんなのこがいっしょにかえれなかったのが、なによりもかなしい。ふねのひとも、みんな、こどもはあつまって、さわいでいる。そうしているうちに、いっそう、かなしみにたえられず、ひそかに、こころしれるひととよんだうたは、
むまれしも かへらぬものを わかやとに こまつのあるを みるかゝなしさ
といった。まだ、たりなかったのだろう。また、つぎのように(よんだ)。
みしひとの まつのちとせに みましかは とほくかなしき わかれせましや
※1 「まかりのおほちのかた」=諸説あって、具体的になにかはわからないよう。「まがり」はお餅とも。
※2 「くるときそ ひとはとかく ありける」=国司としてたいへんな蓄財をしてかえってくるひともいるので、こんなことになるのでしょうか。貫之はそういうことはなかったようですけれども。
※3 「なかゝきこそあれ ひとついへのやうなれは」=『貫之集』につぎのうたがあります。「興風がもとに杜若をつけてやる
きみかやと わかやとわける かきつはた うつろはぬとき みむひともかな」
貫之の妻(時文の母)は貫之と離婚して藤原興風といっしょになったのでは、という説があるようです。(そのばあい、なくなったおんなのこの母はまたべつのひと。)このくだりの背景になっているような感じがしなくもありません。
※4 「たへす」=青谿書屋本に「へ」とあるのですが、「絶えず」と解釈するのが通説です。参考: 「『土佐日記』における仮名表記の特色:「ア行のエ」「ヤ行のエ」に注目して 」
※5 「さるはたよりことにものもたへすえさせたり」=通説では、この文の主語を貫之とみるようです。けれども、ここではとなりのひとの発言として訳しました。
元旦の日記に「かうやうのもの なきくになり もとめしもおかす」とありました。貫之は、みやこから土佐にうつりました。土佐では、手にはいらないものが、ほかにもいろいろとあったのではないでしょうか。となりのひとは、貫之からたのまれれば、いろいろと手配してあげていたのかもしれません。このように解釈すると、元旦の伏線を回収できます。
※6 「こよひかゝることゝこわたかにものもいはせす」=通説では、この部分の主語も貫之とみるようです。ここでは、この部分の主語もとなりのひとと解釈しました。
※7 「こゝろさしは せむとす」=通説は、とうとうここを「お礼はしようとおもう」のように貫之じしんのことばとみるようです。それでは、貫之以外のひとがかいているという『土佐日記』の設定をやぶっていることになります。どうもしっくりときません。主語は「となりのひと」のままつづいているとみれば、なにかおわびを貫之にわたしたようになります。このあとすぐに、このばはおさまってしまいます。訳も後者の解釈でしてみました。
おわりに
わすれがたく、(かかないままにしてしまうことが)惜しい(※1)こともおおいけれど、(かき)つくせない。ともあれかくもあれ、はやくとどけよう(※2)。
《おしまい》
※1 「くちをし」=語源は「朽ち惜しい」とする説があります。日記にかきのこさないことで、朽ちて(わすれられて)しまうことが惜しい。そんなニュアンスで訳してみました。
※2 「やりてむ」=古語辞典では、「破りてん」と解釈して「やぶってしまおう」する訳をのせているでしょうか。「破りてん」とする説は、『土佐日記抄』(1661年)などからみることができます。それよりもふるい「『土佐日記』(片仮名本妙寿院本)」では、本文に「遣テン(とどけよう)」とかかれています。
冒頭部分の補足に、貫之はだれかから依頼をうけて『土佐日記』をかいたのでは、という説があることをかきました。そのばあい、この部分の解釈は「遣てん」としたほうが、しぜんに感じられます。
『土佐日記』の依頼者は?
貫之が『土佐日記』をとどけたあいてのひとりとして、藤原実頼が候補にあげられています。『貫之集』には、承平5年(935年)12月の実頼との歌がのこされています。「殿」が実頼です。
「殿の、男・女の君だちの、かうぶりし裳着たまふ夜、殿
いままでに むかしの人の あらませば もろともにこそ 笑みて見ましか
とて賜へる御返し
いにしへを 恋ふる心の あるがうへに 君を今日までまたぞ 恋ふべき」
実頼のうたの「むかしの人」を『土佐日記』の「むかしのひと(なくなったおんなのこ)」と解釈する説もあります。ほかには、実頼の妻の藤原時平の娘だとする説などもあるようです。
その後、『土佐日記』はだれにおくられたのでしょうか。貫之の自筆の『土佐日記』は、後白河上皇のたてた蓮華王院に鎌倉時代までたいせつに保管されていたようです。それを藤原為家が書写したものを、さらに臨写したものが青谿書屋本『土佐日記』ということになります。
貫之の家のその後
あれはてた家は、どうしたのだろう。すこし、しんぱいになります。『貫之集』につぎのうたがのこっています。
「久しう住みける家を、住まじとてほかへうつるに、前におひたる松と竹とを残して
まつもみな たけをもここに ととめおきて わかれていつる こころしらなん
きのうけふ みへきかきりと まもりつる まつとたけとを いまそわかるる」