Shiki’s Weblog
『土佐日記』を訳しなおしてみる ― その2
2020/01/04, 加筆・改訂: 2020/01/20, 1/25(十八日)
その1につづいて『土佐日記』から。今回は、『土佐日記』の1月7日から1月21日のぶんまでを訳しなおしてみました。
1/7 若菜の節の日
七日になってしまった。おなじみなとにいる。きょうは白馬(の節会)をおもったけれど、しかたがない。ただ、しろい波だけがみえる。
そういているうちに、池というなまえのばしょのひとの家から、(池の)コイはなくても、フナからはじまって、川のもの、海のもの、そのほかのものまで、ながびつにかついで、つぎつぎにおくってきた。
(ながびつのなかの)若菜がきょうをしらせる。うたがある。そのうた。
あさちふの ゝへにしあれは みつもなき いけにつみつる わかなゝりけり
とてもすばらしい。この池というのは、ばしょのなまえだ。(家柄の)よいひとが夫について、くだりすんだそうだ。
このながびつのものは、みんなに、こどもにまでくれたので、あきるまでたべて、おかなもいっぱいで、ふねのこどもは、はらづつみをうつので、海までおどろかして、波をたててしまいそうだ。
さて、こんなことをしているあいだに、おおくのことがあった。
きょう、破籠(※1)をもたせてきたひと(がいたけれど)、なまえはなんといったか。すぐに、おもいだすだろう。そのひとは、(あるひとと)うたをよもうというおもいがあってきたようだ。あれこれいってはいってから、「波がたちそうなこと」と(のどを)うるわして(※2)いって、よんだうたは、
ゆくさきに たつしらなみの こゑよりも おくれてなかむ われやまさらん
と、よんだ。
とてもおおきな声なのだろう。もってきたものとくらべれば、うたはましだろうか。このうたを、あれこれ、しみじみしてみせても、ひとりも(うたを)かえさない。(かえしを)しているべきひとも、まざっていたけれど、これだけはいたがり(※3)、ものをのみくいして、夜がふけた。
このうたのぬしが、「まだ、かえりません」といって、たっていった。あるひとのこが、こどもなのに、こっそりいう。「わたしが、このうたのかえしをしたい」 という。おどろいて、 「とてもすばらしいことだよ。よめるかな。よめるようなら、はやく(かえしを)いってごらん」 という。「『かえりません』とたったひとをまって、よむ」 というので、さがしたのだが、夜がふけてしまったということだろうか。そのまま、いなくなってしまった。「そもそも、どうよんだの」 と、しりたがってきく。そのこは、さすがに、はずかしがっていわない。あえてきくと、いったうたは、
ゆくひとも とまるもそての なみたかは みきはのみこそ ぬれまさりけれ
とよんだのだった。こうも、いうものか。かわいい(まだまだこどもだとおもっていた)からだろうか。おもってもいなかった。こどものことばなので、なにかできるだろうか。おじいさんと、おばあさんが、手をおしておいたらよいだろう(※4)。
(かえってしまったひとのうたは、) 「わるくて、まったく(※5)(だったけれど)、ついでがあれば(このかえしを)やろう」 と、のこしておいたようだ。
※1 「わりこ」=破籠。おべんとう箱。ながびつとくらべると、ずいぶんとちいさい。
※2 「うるへ」=潤ふ。うるおす。「憂ふ」と解釈して「しんぱいして」とする説もあります。
※3 「いたかり」=痛がり。いまのひとのいう「痛い」とおなじような感じがします。
※4 「おむなおきなておしつへし」=ほんらいは掌印のことのよう。つぎの文とつなげて、「おじいさんか、おばあさんが、(じぶんの)手を」とするのが通説でしょうか。「おむなおきな」を「おじいさん or おばあさん」とするのは、不自然な感じがします。おばあさんの署名は、かえってしまったひとはいらないでしょうから。まえの文につづけて、「おじいさん and おばあさんが(そのこどもの)手を」という解釈もありそうです。それだと、二月四日の「をむなこのためには おやをさなくなりぬべし」という気もちにちかい感じになります。
※5 「あしくもあれいかにもあれ」=「(こどものうたをかえすのは、)わるかろうが、どうであろが」というのが通説でしょうか。ここでは、かえったひとのうたにはのこしておく価値もないけれど、このかえしのためにのこしておくことにした、というように解釈しました。
「わらはことにては」からこの日のおわりまでの部分は、諸説あって解釈がむずかしいです。
1/8
八日。つごうのわるいことがあって、なお、おなじところだ。こよい、月は海にしずんだ。これをみて、業平さまの「やまのはにけて いれすもあらなむ」といううたが、おもいおこされた。もし海辺でよまれていたら、「なみたちさへて いれすもあらなむ」のように、よまれただろうか。
いま、このうたをおもいだして、あるひとがよんだのが、
てるつきの なかるゝみれは あまのかは いつるみなとは うみにさりける
とか。
1/9
九日の朝はやく、おおみなとより「奈半のとまりをめざそう」とこぎだした。
あのひともこのひとも、かわるがわる「くにの境のうちがわのあいだは」と、みおくりにくるひとがおおぜいいるなかで、ふじはらのときざね、たちばなのすゑひら、はせべのゆきまさらは、館からでられた日から、ここかしこにおってきた。このひとたちこそ、こころざしのあるひとたちだった。このひとたちの、ふかいこころざしは、この海にもおとらないだろう。
これからすぐに、こぎはなれてゆく。これをみおくろうと、そのひとたちがおってきた。こうして、こぎゆくとともに、海のほとりにいるひともとおくなり、ふねのひともみえなくなった。岸(のひと)にも、いうことはあるだろう。ふね(のひと)にも、おもうことはあるけれど、しかたがない。なので、このうたをひとりことばにして、おわりにした。
おもひやる こゝろはうみを わたれとも ふみしなけれは しらすやあるらん
こうして、宇多のまつばらをゆきすぎる。その松のかず、どれほどか。何千年へたのか、わからない。それぞれの根もとに波がうちよせて、それぞれの枝に鶴がとびかよう。すばらしいとみているだけではいられずによんだ、ふねのひとの歌は、
みわたせは まつのうれことに すむつるは ちよのとちとそ おもふへらなる
とか。このうたは、このばしょをみるのには、とてもおよびません。
こうあるのをみつつ、こぎゆくとともに、山も、海も、みな暮れ、夜もふけて、西も東もみえないので、天気のことはかじとりにまかせた。男もなれないことは、とてもこころぼそい。まして、女は、船底に頭をつきあてて、声をだしてなくばかり。そうかとおもえば、ふねのこどもや、かじとりは、ふなうたをうたって、なんともおもっていない。そのうたった、うたは、
はるのゝにてそ ねをはなく わかすゝきに てきるこ
つんたるなを おやゝまほるらん
しうとめや くふらん かへらや
よんへの うなゐもかな せにこはん
そらことをして おきのりわさをして せにもゝてこす おのれたにこす
これだけでなく、いろいろあったけれども、かかずにおく。これらをひとがわらうのをきいて、海はあれても、こころはすこしおだやかになった。
こうして、一日をゆきすごして、とまりについて、おじいさんひとりと、おばあさんひとりが、一行のなかで気もちがわるくなって、なにもめしあがらず、おやすみになった。
1/10
十日。きょうは、この奈半のとまりにとまる。
1/11
11日。夜があけるまえに、ふねをだして、室津をめざす。みんなまだ(ふねの屋形のなかで)ねているので、海のようすもみえない。ただ、月をみて、西と東とはわかる。
そのあいだに、みんな、夜があけて、手あらいのきまりごと(※1)もして、昼になった。
たったいま、羽根というところにきた。おさないこが、このばしょのなまえをきいて、「はねというところは、とりのはねのようなところ?」ときく。まだおさないこどものことばなので、ひとびとがわらったときに、(七日にうたをよんだ)このあいだのおんなのこが、このうたをよんだ。
まことにて なにきくところ はねならは とふかことくに みやこへもかな
といった。男も女もどうにかはやく京へかえりたいとおもっているので、このうたはよいということではないけれど、「ほんとうに(そうだ)」とおもって、ひとびともわすれなかった。
このはねというところをきいたこから、また、(なくなった)ひと(※2)をおもいかえさずに、すっかりわすれていたりできるだろうか。きょうは、まして母のかなしまれることといったら(※3)。くだったときのひとのかずにたりないので、ふるいうたに「かすはたらてそ かかへるへらなる」(※4)とあることをおもいだして、ひとがよんだのが、
よのなかに おもひやれとも こをこふる おもひにまさる おもひなきかな
といいながらに(かなしみがとまらない)。
※1 「てあらひれいのこと」=「九条殿遺誡」にある、おきたら、属星の名を7回となえて、鏡でかおをみて、暦でその日の吉凶をみて、手をあらって、うんぬん、というようなことをさすらしい。
※2 「むかしへひと」=なくなったおんなのこ。
※3 「かなしからるゝことは」=「は」は詠嘆の終助詞とする説によりました。係助詞とする説をとると、解釈がむずかしいです。
※4 「かすはたらてそ かへるへらなる」=古今和歌集のつきのうたのよう。
題しらす
このうたは、ある人、をとこ女もろともに人のくにへまかりけり、をとこまかりいたりてすなはち身まかりにけれは、女ひとり京へかへりけるみちにかへるかりのなきけるをききてよめるとなむいふ
よみ人しらす
きたへゆく かりそなくなる つれてこし かすはたらてそ かへるへらなる
1/12
12日。雨はふらない。ふむとき(※)、これもちの、おくれていたふねが、奈良志津から室津にきた。
※ ふむとき=「文時」なら貫之の子の「時文」をぎゃくにしたなまえになっている。これもちも、「之望」なら、貫之の父、紀望行の「望」と、貫之の「之」をあわせたようななまえになる。
1/13
13日の夜があけるまえに、すこし雨がふった。すこしたってやんだ。女たちが、水あびなどをしようと、そのあたりのてきとうなところにおりていった。ゆく海をみわたしていたら、
くもゝみな ゝみとそみゆる あまもがな いつれかうみと ゝひてしるへく
とうたをよんだ。
さて、十日あまりなので月がすばらしい。ふねにのりはじめた日から、ふねでは、紅色のこい、よい着ものはきない。「それは海の神がこわくて」といっていたのに、なんということのないあしかげにかこつけて、ほやのつまのいずし、すしあわびを、こころにもなく、(裾を)すねにあげてみせてしまった。
※ 後半は、天鈿女命を連想させて、海の神の神がかりにあってしまった、というようなお話と解釈したりもできるようです。神がかりにあっているので「こころにもなく」でしょうか。
1/14 斎日
14日。夜があけるまえから雨がふったので、おなじところにとまった。ふなぎみは、(精進のため)節忌をする。精進物がないので、おひるからあとは、かじとりが、きのうつった鯛と、銭がないので、米をとりかえて、(精進)おとしをされた。こうしたことが、まだあった。かじとりが、また、鯛をもってきた。米と酒をたびたびやった。かじとりの機嫌はわるくない。
1/15 粥御節句・陰錯
15日。きょう、小豆がゆを煮なかった。ざんねんで、くわえて、日もわるいので、膝であるくほど(しかすすめず)に、きょうで二十日あまりたった。いたずらに日がたつので、ひとびとは海をながめてばかりいる。おんなのこがいったのは、
たてはたつ ゐれはまたゐる ふくかせと なみとはおもふ とちにやあるらん
たわいないこどもがいうのには、とても似あっている。
1/16
16日。風も波もやまないので、なお、おなじところにとまっている。ただ、海に波がなくなって、はやく御崎というところをわたりたいとばかりおもう。風も波も、すぐにやみそうもない。あるひとが、この波だつのをみてよんだうたは、
しもたにも おかぬかたそと いふなれと なみのなかには ゆきそふりける
さて、ふねにのった日から、きょうまでに、25日になってしまった。
1/17
17日。くもっていた雲もなくなって、夜あけまえの月夜がとてもすばらしいので、ふねをだして、こいでいく。そのあいだに、雲のうえも、海のそこも、(月が海面にうつって)おなじようになっていた。いかにも、むかし、男が、「さをはうかつ なみのうへのつきを ふねはおそふ うみのうちのそらを」といったそうだ。たわむれに、そうきいた。
また、あるひとがよんだうたは、
みなそこの つきのうへより こくふねの さをにさはるは かつらなるらし
これをきいて、あるひとが、またよんだのは、
かけみれは なみのそこなる ひさかたの そらこきわたる われそわひしき
そうしているあいだに、夜がようやくあけていくのに、かじとりたちが、「くろい雲がきゅうにでてきた。風もふくだろう。ふねをひきかえします」といって、ふねはひきかえした。このあいだに雨がふってきた。とてもわびしい。
1/18
18日。なお、おなじところにいる。海があれているので、ふねをすすませられない。このとまりは、とおくからみても、ちかくからみても、とてもすばらしい。けれども、くるしくて、なにもかんがえられない。男たちは、気ばらしにだろう。漢詩などをしている。
ふねもすすめられず、ひまなので、あるひとがよんだのは、
いそふりの よするいそには としつきも いつともわかぬ ゆきのみそふる
このうたは、いつもはしないひとのことばだ。またひとがよんだのは、
かせによる なみのいそには うくひすも はるもえしらぬ はなのみそさく
このふたつのうたを、すこしよいなと耳にして、ふねの長をしているおじいさんが、月日ごろのくるしいこころをはらそうとよんだのは、
たつなみを ゆきかはなかと ふくかせそ よせつゝひとを はかるへらなる
これらのうたを、ひとがなにかといっているのを、あるひとがききいって、よんだ。そのうた、よんだ文字、37文字。どのひとも、たまらず、わらうありさまだった。うたをよんだひとは、きげんがわるくなって、うらみごとをいった。
「まねていってるのに、うまくまねできない。たとえ、かいてみたとしても、きっと、よみさだめがたいだろう。きょうだって、いうのがむずかしい。まして、のちには、どうなるだろう(※)」
※ 「まねへとも~」=通説は日記の著者が「あるひと」の歌をまねしても、でしょうか。けれども、ここは、「あるひと」がききかじったくらいでまねをしても、といって(怨じて)いる感じがします。貫之はおそらく、かきくだして37文字だったといっているので、「よみすえゑ」ることもできています。
1/19 陽錯
十九日。(天気だけでなく、きょうはこよみのうえでも「陽錯」で)日がわるいので、ふねをすすませられなかった。
1/20
二十日。(天気が)きのうまでとかわらないので、ふねをすすませられない。ひとびとはみんな、ぐちをこぼして、ためいきをつく。しんぱいでこころもとなかったので、ただ日のすぎてしまったかずをきょうでなんにちか、「はつか、みそか」と、かぞえては、指もかぞえそこなって(※)しまいそうだ。とてもこころぼそい。夜は、ねむれもしない。
二十日の夜の月がでてしまった。山の端もなくて、海のなかからでてくる。このようなのをみてだろうか。むかし、あべのかなまろというひとが、唐にわたってかえってくるときに、ふねにのるところで、あちらのくにのひとは、はなむけに、わかれをおしんで、りっぱな漢詩をつくったりした。なごりおしかったのだろう。はつかの夜の月がでてきてもまだ、(ふねにのるところに)いた。その月は海からでてきた。それをみて、なかまろさまが、「わがくにでは、こういううたを神代より神もおよみになった。いまはかみも、なか、しものひとも、このようにわかれおしみ、よろこびもあり、かなしみもあるときには、よむ」とよんだうたは、
あをうなはら ふりさけみれは かすかなる みかさのやまに いてしつきかも
とよんだ。あちらのくにのひとは、きいてもわからないだろうと、おもわれたけれども、ことばのこころを、男文字で、おもむきをかきだして、こちらのことばをつたえるひとにつたえると、そのこころをわかったのだろうか。ほんとうにおもいのほか、気にいったのだった。唐とこのくにとは、ことばは異なるけれど、月のすがたはおなじなのだから、ひとのこころもおなじなのだろう。
さて、ちょうどいま、そうしたむかしにおもいをはせて、あるひとのよんだうたは、
みやこにて やまのはにみし つきなれと なみよりいてゝ なみにこそいれ
※ 「およびもそこなわれ」=「指も傷ついて」という解釈もあるようですが、現実味がありません。ここでは、日数がふえすぎて、かぞえようにも、指ではしそこなってしまうと解釈しました。10をこえると、だんだんわからなくなってきてしまう感じをいっているようにおもいます。ちなみに、この日は門出から29日目。「みそか」といっている時点で、かぞえそこなってしまっています。
1/21
21日。あさ6時ごろに、ふねをいかせる。ひとびとのふねがみんなでていく。これをみると、春の海に秋のこの葉がちっているようだった。ふしてたてた願(※1)のおかげだろうか。風もふかず、よい日がめぐってきて、こいでゆく。
このあいだに、やとってほしいと、ついてくるこどもがいた。そのこがうたうふなうたは、
なほこそ くにのかたは みやらるれ わかちゝはゝあり としおもへは かへらはや
とうたって、しみじみくる。
こううたうのをききつつ、こいでいくと、黒鳥という鳥が岩のうえにあつまっていて、その岩のもとに波がしろくうちよせている。かじとりのいいようで、
くろとりのもとに しろきなみをよす
という。このことばは、なんともないけれども、なにかいいたそうに(※2)きこえた。
「ひとのほどにあわないので、といただしてみる」 そういいながらゆくと、ふなぎみのひとが波をみて、(いわれる。)
「国をでてから海賊が仕かえしをするかもというようなことをかんがえているうえに、海もまたおそろしいので、頭もすっかりしろくなってしまった。(もうすぐ)七十路、八十路が海にいるのだ。
わかゝみの ゆきといそへの しらなみと いつれまされり おきつしまもり
かじとり、(かえしを)いえ」
※1 「おほろけの願」=12月22日にたてた願のこと。「おぼろけの」の意味は諸説あるようです。
※2 「ものいふやうにぞ」=この部分の解釈は、かじとりのうたがすこしうまくなったという解釈と、かじとりが貫之に失礼だったという解釈があるようです。前者のばあいは、「ものいふ」を「気のきいたことをいう」と解釈するようです。ここでは、後者の解釈をとりました。
くろうして髪もしろくなった貫之に、かじとりが「黒鳥のもとに 白き波をよす(白髪がふえましたねぇ)」などと、ヘタなうた(八八)のようにいうので、なにかかえせ、というようなながれでしょうか。この解釈だと、18日の例の37文字(六九六八八とか)のひとは、かじとりかもしれません。うたは、三日でうまくなったりはしなさそうです。
とにもかくにも、室津からなかなかでられなかった一行も、ようやくつぎのばしょにむかうことができたようです。