Shiki’s Weblog

大伴旅人の表記革命

2019/04/10, 2019/04/11一部改訂.

新元号と万葉集

 あらたしい元号が「令和」にきまったということがニュースになっていました。出典は「万葉集」の「梅花の宴」の序からということで、すっかり万葉集がマイブームでした。

 ニュースでは、序の部分は漢文で漢籍の影響をうけている、というおはなしがおおかった気がします。高島俊男さんは元号はやまとことばにしたら、とかかれていました。万葉集からときいて、もしやとおもったのですが、そこはざんねん(?)でした。

 ところで序の部分、さいごまでみましたか?

古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

 「竹取翁と万葉集のお勉強」の土方賀陽さんの私訳がきれいでした。

漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。

 漢詩ではなく和歌をつくろうというのが、大伴旅人がひらいた「梅花の宴」の趣旨だったようです。土方さんは、この宴の「名詞や動詞を表す漢語をすべて棄て」た「万葉仮名だけの一字一音表記の三十一字の和歌は革命だったと思います」とかかれています。

 ときのひとでもある中西進さんも、つぎのようにかかれていました。

旅人の歌は平明である。(中略)旅人の歌の表記が、ごく簡単な仮名によっていることと、無関係ではないだろう。

 今日、われわれは仮名として決まった文字を「あ」「い」「う」のように使う。それと同じで「あ」なら「安」、「い」なら「伊」と決っていると便利である。これを常用仮名とよべば、常用仮名の最初の使用者は旅人といえる。

― 『大伴旅人―人と作品』, 「はじめに」, 中西進(編).

 もしかして漢字廃止をなしとげたひとが奈良時代にいた?今回はそのあたりをじぶんなりにしらべてみた、というおはなしです。 

大伴旅人の歌

 『大伴旅人―人と作品』をよむと、大伴旅人の歌のおおくは、つくられた年月順にならべられることがわかりました。したの年表がそれをまとめたものです。原文は「竹取翁と万葉集のお勉強」にのせられているものをつかっています。「西本願寺本の原文の表記」とのことです。

年月
巻-番号
できごと/歌
724年
三-315 見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 永可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之處
三-316 昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨
727年 太宰府 任命
728年 妻とともに太宰府へ
4月 妻病死
五-793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
八-1473 橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多寸
六-956 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
六-957 去来兒等 香椎乃滷尓 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六
六-960 隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧之 尚不及家里
六-961 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
729年
四-555 為君 醸之待酒 安野尓 獨哉将飲 友無二思手
五-806 多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米
五-807 宇豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曽
五-810 伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武
五-811 許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志
730年
五-822 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 (梅花の宴)
五-847 和我佐可理 伊多久々多知奴 久毛尓得夫 久須利波武等母 麻多遠知米也母
五-848 久毛尓得夫 久須利波牟用波 美也古弥婆 伊夜之吉阿何微 麻多越知奴倍之
五-849 能許利多留 由棄仁末自例留 宇梅能半奈 半也久奈知利曽 由吉波氣奴等勿
五-850 由吉能伊呂遠 有婆比弖佐家流 有米能波奈 伊麻左加利奈利 弥牟必登母我聞
五-851 和我夜度尓 左加里尓散家留 宇梅能波奈 知流倍久奈里奴 美牟必登聞我母
五-852 烏梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曽
五-853 阿佐里流須 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等
五-854 多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉
五-871 得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈
12月 上京(平城京)
六-967 日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞
六-968 大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣将拭
三-446 吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
三-447 鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
三-448 礒上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可
三-449 与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
三-450 去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲哀
三-451 人毛奈吉 空家者 草枕 旅尓益而 辛苦有家里
三-452 与妹為而 二作之 吾山齊者 木高繁 成家留鴨
三-453 吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流
三-439 應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕
三-440 在京師 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦
731年
六-969 須臾 去而見鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武
六-970 指進乃 粟栖乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六
7/25

 旅人ののこっている歌は、旅人が60歳をすぎてからのものだけだそうです。 『大伴旅人―人と作品』では、「旅人はそれまで歌を詠まなかったと見るのが穏当なのであろう」(p45)とのべられています。

 このままでは、よむのがたいへんすぎるので、「常用仮名」の部分を現代のかな文字でかきなおしてみました。それが、したの表です(あやまりがあったら、すみません)。

年月
巻-番号
できごと/歌
724年
三-315 み吉野し 芳野ノ宮は 山からし 貴有し 永からし 清有し 天地ト 長く 萬代に 不改将有 行幸し處
三-316 昔見し 象ノ小河を 今見は 弥清 成に来鴨
727年 太宰府 任命
728年 妻とともに太宰府へ
4月 妻病死
五-793 ヨノなかは むなしきモノト しるトきし いヨヨますます かなしかりけり
八-1473 橘し 花散里ノ 霍公鳥 片戀しつつ 鳴日しソ多き
六-956 八隅知し 吾大王ノ 御食國は 日本も此間も 同トソ念
六-957 去来兒等 香椎ノ滷に 白妙ノ 袖さヘ所沾て 朝菜採てむ
六-960 隼人ノ 湍門ノ磐モ 年魚走 芳野ノ瀧ノ 尚不及けり
六-961 湯原に 鳴蘆たづは 如吾 妹に戀や 時不定鳴
729年
四-555 為君 醸し待酒 安野に 獨や将飲 友無にして
五-806 たつノ馬モ いまモえてしか あをにヨし ならノみやこに ゆきてコむたメ
五-807 うつつには あふヨしモなし ぬばたまノ よるノいメにを つきでみ𛀁コソ
五-810 いかにあらむ 日ノトきにかモ コゑしらむ ひトノひざノヘ わがまくらかむ
五-811 コトゝはぬ 樹にはありトモ うるはしき きみが手なれノ コトにしあるヘし
730年
五-822 わがソノに うメノはなちる ひさかたノ あメよりゆきノ ながれくるかモ (梅花の宴)
五-847 わがさかり いたくゝたちぬ くもにトぶ くすりはむトモ またをちメやモ
五-848 くもにトぶ くすりはむよは みやこみば いやしきあがミ またをちぬヘし
五-849 ノコりたる ゆきにまじれる うメノはな はやくなちりソ ゆきはケぬトモ
五-850 ゆきノいロを うばひてさける うメノはな いまさかりなり みむひトモがも
五-851 わがやどに さかりにさける うメノはな ちるヘくなりぬ みむひトもがモ
五-852 うメノはな いメにかたらく みやビたる はなトあれモふ さケにうかヘコソ
五-853 あさりるす あまノこトモト ひトはいヘド みるにしら𛀁ぬ うまひトノこト
五-854 たましまノ コノかはかみに いへはあれド きみをやさしみ あらはさずありき
五-871 トほつひト まつらさよひメ つまごヒに ひれふりしより おへるやまノな
12月 上京(平城京)
六-967 日本道ノ 吉備ノ兒嶋を 過で行は 筑紫ノ子嶋 所念かも
六-968 大夫ト 念在吾や 水莖ノ 水城ノ上に 泣将拭
三-446 吾妹子し 見し鞆浦し 天木香樹は 常世有ト 見し人ソなき
三-447 鞆浦し 礒し室木 将見毎 相見し妹は 将所忘やモ
三-448 礒上に 根蔓室木 見し人を 何在ト問は 語将告か
三-449 与妹来し 敏馬ノ埼を 還さに 獨で見は 涕ぐましも
三-450 去さには 二吾見し 此埼を 獨過は 情悲哀
三-451 人もなき 空家は 草枕 旅に益て 辛苦有けり
三-452 与妹して 二作し 吾山齊は 木高繁 成ける鴨
三-453 吾妹子し 殖し梅樹 毎見 情咽つつ 涕し流
三-439 應還 時は成来 京時にて 誰手本をか 吾将枕
三-440 在京師 荒有家に 一ねは 益旅て 可辛苦
731年
六-969 須臾 去て見鹿 神名火ノ 淵は淺て 瀬にか成らむ
六-970 指進ノ 粟栖ノ小野ノ 芽花 将落時にし 行て手向む
7/25 没 (67歳)

※ カタカナは上代特殊仮名遣の乙類。当時は、「き」などが2種類にわかれていたとみられ、それぞれを「甲類」「乙類」とよぶそうです。さいしょに気づいたのは本居宣長といわれています。

 五巻の793(これを五-793とかいています)を例外として、729年と730年につくられた歌の表記はきわだっています。とくに梅花の宴でうたわれた五-822からは、「常用仮名」以外の漢字がいっさいつかわれていないことがわかります。土方さん、中西さんがいわれているのは、なるほどこういうことか、という感じがします。

 旅人がこうした一字一音の表記をつかったのは、旅人が大宰帥として大宰府にいた時期だけのようにみえます。京にいたときには、漢文にちかいようなかきかたをしていることがわかります。京では、まだうけいれられなかったのでしょうか。土方さんがこの表記を「実験」と評されている理由はこのあたりのようにも感じます。

 それにしても、旅人はなぜこんな表記を当時おもいついたのか。五-793は五巻の冒頭歌です。京から太宰府までいっしょにきた妻が、太宰府ですぐになくなってしまったあとの歌です。

余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理 よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり

意図したわけではなく、感情のままにかいたら、こうだった。そんな、かなしいできごとだったような感じもします。

古今和歌集へ

 旅人の一字一音の表記の実験はその後、どうなってしまったのでしょうか。気になるところです。

 さいきんの研究では、古今和歌集の和歌はもっぱらかな文字だけでかかれていたと推測されているようです(「古今和歌集元永本の周辺における漢字」, 石井久雄, 2013.)。

 万葉集は一字一音表記が主体の巻と、そうでない巻とにわけられる(「短歌の各句を構成する漢字数と漢字一字一音のみで表記されている歌の割合」)。かな表記主体と言われる巻は、五・一四・一五・一七・一八・二〇。宣長は、つぎのようにかんがえていたそうです。

卷々を類別して各類につき各々別に定むべきであると考へ、先づ一・二・三・四・六・七・八・九・十・十一・十二・十三・十四・十六の十四卷を前撰、五・十五・十七・十八・十九・二十の六卷を後撰として、前撰を更に一・二・四・六、三・八・九、七・十、十一・十二・十三、及び十四の五類に分ち、各類每に巻の順序を考へて居る。 ― 『本居宣長の万葉学』, 大久保正, p97.

 旅人の子、大伴家持の記事には、「『万葉集』卷十七~二十は、(家持の)私家集の観もある」とあります。契沖は万葉集の家持私撰説をとなえたそうです。また、『大伴旅人―人と作品』には、梅花の宴にあらわれる紀卿が紀男人であれば、「旅人の序文のよき理解者であり、あるいはその共作者として力を合わせたことも考えられる。」(p159)とあります。土方さんの「万葉集の歴史と訓点」もおもしろい記事でした。

 旅人の実験が家持にうけつがれ、紀貫之が完成させる。そんなイメージがわきますが、くわしい研究はこれからということになるようです。

漢字廃止の思想史

 安田敏朗さんの『漢字廃止の思想史』という本があります。現在の常用漢字につながる漢字制限や漢字廃止のかんがえかたは、明治初期からの歴史としてかたられることがほとんどのようにおもいます。とはいえ、宣長もまた、

皇國の言を、古書どもに、漢文ざまにかけるは、假字といふものなくして、せむかたなく止事を得ざる故なり、今はかなといふ物ありて、自由にかゝるゝに、それを捨てて、不自由なる漢文をもて、かゝむとするは、いかなるひがこゝろえぞや、 ― 『玉勝間』,「仮字」

とかいています。高島俊男さんも、たしょうの批判もまじえつつも、つぎのようにかいています

日本人が、漢字、漢文、漢籍を無上にありがたがるのを、最も強く批判したのは本居宣長である。この人はしばしば、ほとんどかなばかりの文章を書いている。 ― 『漢字と日本人』, 高島俊男, p115.

 今回、旅人の歌をおってみて、この思想史はもっとふるい時期までさかのぼれるようにおもいました。宣長も古事記や万葉集をみることで、こうしたおもいにいたったのでしょうか。

漢字含有率と書写年代の関係「漢字含有率と書写年代の関係」

 源氏物語などもほとんど漢字がないかたちでスタートして、定家仮名遣などをへて、すこしずつ漢字のわりあいがふえていった。そういうながれのようです。 斎藤達哉さんの「仮名文の文字調査 : 源氏物語花散里68本の仮名字母と漢字」をもとに、@tktrlさんのつくられたグラフをみるとよくわかります。 ふえたといっても、10%をこえるものは例外のようにみえます。『玉勝間』でも、漢字含有率は15%前後といったところでしょうか。

 柳田国男さんは『国語の将来』(1939)でつぎのようにかいていました。なんでもかんでも漢字漢字というのを「節用禍」といわれていたようです。

全體私なども既にかぶれて居る様に、男なら是非とも漢字澤山の文章を書かなければならぬといふことも因習である。中世には漢文の知識も未熟な癖に、公文は全部あちら文字ばかりを使はうといふ趣味だか約束だかが固かつた為に、それはそれは馬鹿々々しい澤山のあて字が出來て居るのである。私は曾て戯れに是を節用禍と呼んだことがあるが、用ゐ始めた者は只の思ひつきで、人がまねした見馴れたといふ以上には、公認の基礎は無いにも拘らず、前代の書札教育は之を法則視し、誤れば則ち咎めて居た結果、後々この宛字が語の意味を語るかの如く、速斷する者を生じたのである。

 中西進さんの『ひらがなでよめばわかる日本語のふしぎ』(2003)も、柳田国男さんのおはなしをとりあげつつ、つぎのようにかかれています。(この本は文庫版があります。)

漢字から日本語の意味を考えることをやめて、ひらがなでじっくり考えるようにしたいものです。(p40)

最近は、パソコンですぐに難しい漢字が出てくるのもだから、なおさら安易に漢字を使用する傾向にあります。(p215)

 中西進さんがかかれている「どんな字病」は「節用禍」のことでしょうか。現代はライトノベルなどの漢字含有率が20%をきりはじめているというおはなしもあります。表記はまたすこしずつ、やさしさをとりもどしている部分もありそうです。

余談とまとめ

 『万葉集』や『玉勝間』というと、うまれた年代によって、そのとらえかたはかなりかわるようです。一五年戦争中に教育をうけた鶴見俊輔さんはつぎのようにかかれていました。

中学校に入って国語の時間に、『玉勝間』を毎週読まされた時には、いやになってしまった。

昭和十年代のわれわれをとりまいたあの議論の原型が、宣長一門にあるのを知った。

―『鶴見俊輔集 12 読書回想』p156

 大久保正さんは敗戦から二年後の『本居宣長の万葉学』(1947)の「まへがき」(p2)につぎのようにかかれています。この部分は熊野純彦さんの『本居宣長』(p232)にも引用されています。

戦時中、國學が思想宣傳の具として利用され、多くの誇張と歪曲が加へられ、似而非國學の巨大なる偶像が築かれつゝあつた經緯に徴する時、愈々然るものあるを覺える。

 國學は今一度本來の相にかへした上で再吟味されねばならぬ。國學は多面的な性格を持ち、常に流動し推移して居る。其處に醸された幾多の矛盾と分裂とは、國學が学として生長しようとする生命の表象であつた。篤胤を中心として固定された狂信的國學觀は決して國學の學としての生命を正しく把握したるのでは無い。我々は國學精神の源流に遡ぼり、その生長と發展の樣相を種々の視點から明かにして、その上で之を嚴正に批判する事により、始めて新しい古典學の課題として國學を問題とすることが可能となると思ふ。

 小松(小川)靖彦さんが『「万葉集」が政治の力によって突然脚光を浴びる中、私の立ち位置を明確にする必要があります。戦前の「国文学者」の轍を踏まないためにも。単純に批判するのでもなく。』とツイートされていたのは印象にのこりました。

 梅花の宴にもどると、「若非翰苑、何以濾情」とあります。土方さんの私訳は「これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう」でした。漢文にも漢字にもよらず、かな文字(常用仮名)だけで感情を表現するということを、日本人はいまから1300年ほどまえに、はじめたということになるでしょうか。

 とりあえず、いまは政治のことはおいておいて、原文のまま万葉集をみてみるのもおもしろかったです、というおはなしでした。今回はここまで。