Shiki’s Weblog

プログラミング教育と国語の表現力

2019/01/21

はじめに

 一文ではひとつのことしかいわない。そんな、みじかい文をつなげた機能的な文章のかきかたは、どうしたら、うまくまなべるものでしょうか。

やや先ばしったいいかたになるかもしれないが、わたしは、たとえばコンピューターのプログラムのかきかたなどが、個人としてのもっとも基礎的な技能となる日が、意外にはやくくるのではないかとかんがえている。『知的生産の技術』(2015改版), 梅棹忠夫, p16.

 梅棹忠夫さんが著書にこうかかれたのは、1969年のことです。およそ50年たって、2020年度からは日本でも小学校で「プログラミング教育」をうけるようになります。

 これには、いまでも賛否両論あるようです。ときどき、きくのは、論理的な思考もできないのにプログラミングなんてムリ、というもの。ただ、これは順番がぎゃくなようです。論理的にかんがえたり、あたらしいものを創造したりすることをまなぶ。そのためのプログラミング教育だ。そういうことのようです(小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ))。

 それでも、それなら算数や図工ではダメなのか?というのは、気になるところです。『知的生産の技術』をさいごまでよみすすめると、プログラミングを「文章の教育」とつよく関連づけていることがわかります。今回はそのおはなしです。

日本語がもっとよくなる可能性

 梅棹忠夫さんは、達意の文章をかけ、ということを桑原武夫さんからおそわったのだそうです。その桑原さんは、つぎのようなことをはなされています。1971年のおはなしです。対談のあいては、司馬遼太郎さんです。

桑原 まあ、日本語は、いままで議論したように、基礎はできた。 もっとも、これからも日本語が西洋の言語と同じような論理性を持つことはないでしょう。しかし、これからの人間は論理的でなければ生きられませんから、そういう意味での論理性は、漸次そなえてくるでしょう。いま、日本ではコンピュータをアメリカに次いで沢山使っていますね、ヨーロッパより多い。このコンピュータのプログラミングするときには、「生きることは死ぬことである」というようないい方では具合が悪い(笑)。 すべてあいまいなことでは、コンピュータが……。司馬 いうことを聞かない(笑)。桑原 コンピュータを動かすには、少なくともそれなりの論理性がなければならないんです。ですから、コンピュータが普及する過程で、ちょっと楽天主義のようですが、 おのずとわれわれの生活に論理性ができてくるのではないでしょうか。もちろんコンピユータというのは一つのたとえですが、日本人は論理性がないから駄目なんだ、という決め込みはいけませんよ。ですから、司馬さんが亡くなる時代には、日本語がもっとよくなる可能性はあると思います。司馬 理屈も十分喋れて、しかも感情表現の豊かな言語になる。『司馬遼太郎対談集 日本人を考える』, p264.

 プログラミングの経験が、よりよい論理的な日本語の文章のかきかたにつながっていくのではないか。とくに根拠があってのおはなしでもなかったようですが、そういうおはなしをされています。『知的生産の技術』での、情報工学と「文章の教育」とのつなげかたも桑原さんのおはなしとおなじです。きっと、桑原さんと梅棹さんとで、こうした話題についてもはなされていたのでしょう。

国語の問題、ひいては文章の問題は、むしろ、情報工学の問題としてかんがえたほうがよいのではないか。大学でいえば、工学部に情報工学なり言語工学なりの学科をつくり、その出身者が担当するようにするのである。

 やや急進的な意見かもしれないが、将来の日本文明における知的生産の技術、とりわけ、文章によるコミュニケーションの重要性をおもって、こういうこともかんがえてみたのである。『知的生産の技術』(2015改版), 梅棹忠夫, p232.

 もっとも、いまは「国語表現」という授業もあります。平成22年『高等学校学習指導要領解説 国語編』には、つぎのようにその趣旨が説明されています。

国語で適切かつ効果的に表現する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を伸ばし,言語感覚を磨き,進んで表現することによって国語の向上や社会生活の充実を図る態度を育てる。

 うたわれていることは、「プログラミング教育」の趣旨とかわらないようにも感じます。それなら、「国語表現」の授業ではだめなのか?

 国語では、漢字や、文学的な表現などに比重をおきすぎてしまわないか。そうした国語の授業にたいする警戒感が、桑原さんにも、梅棹さんにもあったのだとおもいます。(当用漢字の時代の国語審議会で、桑原さんも梅棹さんも漢字制限をすすめるたちばにたちました。)わからなくもないのですが、日本語のかきかたは、やはり国語でならわないとできないのでは?そういう疑問はのこります。梅棹さんの意見はふるっています。

主語は、自分がこの文章を書くときに、これが主語であるとたてなければいけないものであって、それがないから論理的に書けないというのは、自分の思考法が悪いんや。『梅棹忠夫 語る』, p46.

 国語表現よりも思考法がさきだ。そういうことになるでしょうか。

現代の日本語は、平明にして論理的な文章の開発期にある。『知的生産の技術』(2015改版), 梅棹忠夫, p228.

 日本語は将来もっとよくなる可能性がある。この部分も、桑原さんと梅棹さんとで一貫しています。表現力の課題をひとつひとつつぶしていけば、読解力の問題はもっとうまく解決できるようにもおもいます。日本語のプログラミング言語の研究も、こうした部分とリンクしているとおもしろいのかもしれません。

まとめ

 プログラミング教育と国語表現との関係のようなところを、桑原武夫さんと梅棹忠夫さんの著書などからひろってみました。だれもが将来、職業プログラマーになるわけではない。しかし、作文はだれでもじょうずにできたほうがうれしい。そのためのプログラミング教育という面がある。日本語の表現力は、将来もっとよくできる可能性がある。そういう、おはなしでした。