Shiki’s Weblog
「ふりがなパッド」をつかって文章をかく
2023/07/01
はじめに
この4年ほど、じぶんでかく日本語の文章は「ふりがなパッド」というテキスト エディターをつかってかいています。メールも、ブログも、しごとの書類も、日本語の文章はみんないちど「ふりがなパッド」でかいています。
ふりがなパッドは、Pythonでかいた、3,000行ほどのかんたんなプログラムです。入力した漢字に自動的にルビをふっていく機能があるので、「ふりがなパッド」というなまえにしました。
この記事は総ルビにしています。これも原稿を「ふりがなパッド」でかいているので、しぜんとそうなっています。あとから、てまをかけてルビをふったわけではありません。
ふりがなパッドには、もうひとつべんりな機能があります。それは、ながすぎる一文を色づけして表示する機能です。この記事では、この色づけ機能を利用して、文章をかきなおしていく方法を説明します。
ひとつの文がながすぎる
わたしたちが無意識に作文をすると、ひとつの文のながさが、ながくなりがちです。これはむかしのひとほど、そういうところがあるかもしれません。いまのこどもたちは、ひとつひとつの文をみじかく、かくようにならいます。
ここでは、森鴎外の『妄想』という作品のいちぶを題材として、文章をかきなおしていきます。今回、かきなおしていくのは、つぎの部分です。
自分は失望を以て故郷の人に迎へられた。それは無埋もない。自分のやうな洋行帰りはこれまで例の無い事であつたからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れることになつてゐた。自分は丁度その反対の事をしたのである。
東京では都会改造の議論が盛んになつてゐて、アメリカのAとかBとかの何号町かにある、独逸人の謂ふWolkenkratzerのやうな家を建てたいと、ハイカラア連が云つてゐた。その時自分は「都会といふものは、狭い地面に多く人が住むだけ人死が多い、殊に子供が多く死ぬる、今まで横に並んでゐた家を、竪に積み畳ねるよりは、上水や下水でも改良するが好からう」と云つた。又建築に制裁を加へようとする委員が出来てゐて、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成さうと云つてゐた。その時自分は「そんな兵隊の並んだやうな町は美しくは無い、強ひて西洋風にしたいなら、寧ろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒づつ別にさせて、ヱネチアの町のやうに参差錯落たる美観を造るやうにでも心掛けたら好からう」と云つた。
食物改良の議論もあつた。米を食ふことを廃めて、沢山牛肉を食はせたいと云ふのであつた。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔の儘が好からう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉も食べるやうにするのは勝手だ」と云つた。
仮名遣改良の議論もあつて、コイスチヨーワガナワといふやうな事を書かせようとしてゐると、「いやいや、Orthographieはどこの国にもある、矢張コヒステフワガナハの方が宜しからう」と云つた。
そんな風に、人の改良しようとしてゐる、あらゆる方面に向つて、自分は本の杢阿弥説を唱へた。そして保守党の仲間に逐ひ込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行し出したが、元祖は自分であつたかも知れない。
この文章を「ふりがなパッド」でひらくと、画面はつぎのようになります。
『妄想』(抜粋)を「ふりがなパッド」でひらく
作文をしていると、うえの画面のようにあかい部分のおおい文章になってしまっていることがよくあります。「ふりがなパッド」は、ひとつの文のながさが50字よりながいと文の背景を黄色にします。ひとつの文のながさが60字よりながいと文の背景をあか色にします。
学校に提出するレポートのような文章であれば、背景があかい文がなくなるまで文章をなおしていきます。「やさしい日本語」の文章であれは、背景が黄色の文がなくなるまで、さらに文章をなおします。ひとつの文をみじかくする方法は、『日本語作文術』のような本をよむと、まなぶことができます。
『妄想』は歴史的かなづかいでかかれた文章です。いまのひとには、よみにくいところもあるので、ひとまず現代かなづかいにしていきます。漢字とひらがなのつかいわけは、『NHK漢字表記辞典』と『日本語の正しい表記と用語の辞典』にならうようにします。修正した箇所はあか色でしめします。
自分は失望をもって故郷の人に迎えられた。それは無埋もない。自分のような洋行帰りはこれまで例のないことであったからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立ててご覧に入れることになっていた。自分はちょうどその反対のことをしたのである。
東京では都会改造の議論が盛んになっていて、アメリカのAとかBとかの何号町かにある、ドイツ人のいうWolkenkratzerのような家を建てたいと、ハイカラ連がいっていた。そのとき自分は「都会というものは、狭い地面に多く人が住むだけ人死にが多い。ことに子供が多く死ぬ。今まで横に並んでいた家を、縦に積み重ねるよりは、上水や下水でも改良するがよかろう」といった。また建築に制裁を加えようとする委員ができていて、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成そうといっていた。そのとき自分は「そんな兵隊の並んだような町は美しくはない。しいて西洋風にしたいなら、むしろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒ずつ別にさせて、ベネチアの町のように参差錯落たる美観を造るようにでも心がけたらよかろう」といった。
食物改良の議論もあった。米を食うことをやめて、たくさん牛肉を食わせたいというのであった。そのとき自分は「米も魚もひどく消化のよいものだから、日本人の食物は昔のままがよかろう。もっとも牧畜を盛んにして、牛肉も食べるようにするのは勝手だ」といった。
仮名遣い改良の議論もあって、コイスチヨーワガナワというようなことを書かせようとしていると、「いやいや、Orthographieはどこの国にもある。やはりコヒステフワガナハのほうがよろしかろう」といった。
そんなふうに、人の改良しようとしている、あらゆる方面に向かって、自分は元の木阿弥説を唱えた。そして保守党の仲間に追い込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行しだしたが、元祖は自分であったかもしれない。
ひらがなでかく部分がおおくなっていることに気づくでしょうか。いまのパソコンについてくる日本語入力IMEをつかって作文をしていると、漢字のおおい文章になりがちです。表記のことをよくしらないうちは、用語辞典をひいて文章をかくようにしてみてください。きちんと校正された、よみやすい出版物のような文章にずっとちかくなります。
ここまでなおしたときの「ふりがなパッド」の画面はしたのようになります。ほんとうにながすぎる文はそれほどおおくはなかったようです。
現代かなづかいにする
ながすぎる文をみじかくする
現代かなづかいにした「妄想」のなかの、ながすぎる文をみじかくかきなおしてみます。わたしは、下のようになおしてみました。もっとよいかきなおしかたもあるとおもいます。
自分は失望をもって故郷の人に迎えられた。それは無埋もない。自分のような洋行帰りはこれまで例のないことであったからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝く顔をしていた。そして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立ててご覧に入れることになっていた。自分はちょうどその反対のことをしたのである。
東京では都会改造の議論が盛んになっていた。アメリカのAとかBとかの何号町かにある、ドイツ人のいうWolkenkratzerのような家を建てたい。そうハイカラ連がいっていた。そのとき自分は「都会というものは、狭い地面に多く人が住むだけ人死にが多い。ことに子供が多く死ぬ。今まで横に並んでいた家を、縦に積み重ねるよりは、上水や下水でも改良するがよかろう」といった。また建築に制裁を加えようとする委員ができていた。委員は、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成そうといっていた。そのとき自分は「そんな兵隊の並んだような町は美しくはない。しいて西洋風にしたいなら、むしろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒ずつ別にしてはどうか。ベネチアの町のように参差錯落たる美観を造るようにでも心がけたらよかろう」といった。
食物改良の議論もあった。米を食うことをやめて、たくさん牛肉を食わせたいというのであった。そのとき自分は「米も魚もひどく消化のよいものだから、日本人の食物は昔のままがよかろう。もっとも牧畜を盛んにして、牛肉も食べるようにするのは勝手だ」といった。 仮名遣い改良の議論もあって、コイスチヨーワガナワというようなことを書かせようとしていた。そのときも自分は「いやいや、Orthographieはどこの国にもある。やはりコヒステフワガナハのほうがよろしかろう」といった。
そんなふうに、人の改良しようとしている、あらゆる方面に向かって、自分は元の木阿弥説を唱えた。そして保守党の仲間に追い込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行しだしたが、元祖は自分であったかもしれない。
「ふりがなパッド」の画面はつぎのようになります。あかい文がなくなり、ながすぎる文がなくなっていることがわかります。
ながすぎる文をなおす
ことばえらび
『妄想』は明治44年の文章です。いまのひとには、耳なれないことばもあります。むずかしい部分をやさしいことばにおきかえてみます。なおした箇所は、またあか色でしめします。
自分は失望をもって故郷の人に迎えられた。それは無埋もない。自分のような洋行帰りはこれまで例のないことであったからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝く顔をしていた。そして、荷物の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立ててご覧に入れることになっていた。自分はちょうどその反対のことをしたのである。
東京では都会改造の議論が盛んになっていた。アメリカのAとかBとかの何号町かにある、ドイツ人のいうヴォルケンクラッツァーのような家を建てたい。そうハイカラ派がいっていた。そのとき自分は「都会というものは、狭い地面に多く人が住むだけに人が多く死ぬ。とくに子供が多く死ぬ。今まで横に並んでいた家を、縦に積み重ねるよりは、上水や下水を改良するほうがよいだろう」といった。また建築に規制を加えようとする委員ができていた。委員は、東京の家の軒の高さを一定にして、整然とした外観の美を造ろうといっていた。そのとき自分は「そんな兵隊の並んだような町は美しくはない。どうしても西洋風にしたいのなら、むしろ反対に、あらゆる建築の様式を一軒ずつ別にしてはどうか。ベネチアの町のように多様な様式で美観を造るようにでも心がけたらよいではないか」といった。
食物改良の議論もあった。米を食べることをやめて、たくさん牛肉を食べさせたいというのであった。そのとき自分は「米も魚もとても消化のよいものだから、日本人の食物は昔のままのほうがよいだろう。もっとも牧畜を盛んにして、牛肉も食べるようにするのは勝手だ」といった。
仮名遣い改良の議論もあって、コイスチヨーワガナワというようなことを書かせようとしていた。そのときも自分は「いやいや、正書法はどこの国にもある。やはりコヒステフワガナハのほうがよいだろう」といった。
そんなふうに、人の改良しようとしている、あらゆる方面に向かって、自分は元の木阿弥説を唱えた。そして保守党の仲間に追い込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行しだしたが、元祖は自分であったかもしれない。
「ふりがなパッド」の画面はつぎのようになっています。すこしながかった黄色の文も、すべてなおしました。
「ことばえらび」をする
漢字使用率26%,平均文長31文字くらい文章になりました。もともとは漢字使用率32%,平均文長50文字ほどでした。いまの学校でならう範囲でも、これくらいまではやわらかい文章をかけます。
和語はできるだけ「かな」でかく
故高島俊男さんは『漱石の夏やすみ』のなかで「わたしはかねてから、和語(本来の日本語)はできるだけかなで書くべきだと思っている。」とかきました。梅棹忠夫さんの表記法にならって、これまで部分をかきあらためると、つぎのようになります。
自分は失望をもって故郷の人にむかえられた。それは無埋もない。自分のような洋行がえりはこれまで例のないことであったからである。これまでの洋行がえりは、希望にかがやく顔をしていた。そして、荷物のなかから道具をだして、なにかあたらしい手品をとりたててご覧にいれることになっていた。自分はちょうどその反対のことをしたのである。
東京では都会改造の議論がさかんになっていた。アメリカのAとかBとかの何号町かにある、ドイツ人のいうヴォルケンクラッツァーのような家をたてたい。そうハイカラ派がいっていた。そのとき自分は「都会というものは、せまい地面におおく人がすむだけに人がおおく死ぬ。とくに子どもがおおく死ぬ。いままで横にならんでいた家を縦につみかさねるよりは、上水や下水を改良するほうがよいだろう」といった。また建築に規制をくわえようとする委員ができていた。委員は、東京の家の軒のたかさを一定にして、整然とした外観の美をつくろうといっていた。そのとき自分は「そんな兵隊のならんだような町はうつくしくはない。どうしても西洋風にしたいのなら、むしろ反対に、あらゆる建築の様式を一軒ずつべつにしてはどうか。ベネチアの町のように多様な様式で美観をつくるようにでも心がけたらよいではないか」といった。
食物改良の議論もあった。米をたべることをやめて、たくさん牛肉をたべさせたいというのであった。そのとき自分は「米も魚もとても消化のよいものだから、日本人の食物はむかしのままのほうがよいだろう。もっとも牧畜をさかんにして、牛肉もたべるようにするのはかってだ」といった。
かなづかい改良の議論もあって、コイスチヨーワガナワというようなことを書かせようとしていた。そのときも自分は「いやいや、正書法はどこの国にもある。やはりコヒステフワガナハのほうがよいだろう」といった。
そんなふうに、人の改良しようとしている、あらゆる方面にむかって、自分はもとの木阿弥説をとなえた。そして保守党の仲間においこまれた。洋行がえりの保守主義者は、のちには別な動機で流行しだしたが、元祖は自分であったかもしれない。
和語の用言は、かなでかいても、よくかかれた文章はよみにくくなったりしないものです。ライトノベルなど、ひろく一般にむけた文章も、さいきんは漢字使用率を20%以下にするようにいわれます。『妄想』の文章もこれくらいまでかきなおすと、漢字使用率が20%をきってきます。
※ 漢字使用率がへってくると、文字入力には「ひらがなIME」のようなIMEをつかったほうが楽になってきます。「ふりがなパッド」の自動でルビをふっていく機能をつかうときも「ひらがなIME」がひつようになります。
森鴎外というひと
2017年のわたしの記事で、「100年前の夏目漱石は理解可能、そのすこしまえの森鴎外はすでにむずかしい」というお話があることをかきました。森鴎外というと「仮名遣意見」が有名です。かなづかいの変更に反対したひとということにされています。たしかに、歴史的かなづかいのままの鴎外の文章は、いまではよむのがむずかしいところがあります。けれども、『妄想』をみると、鴎外がどういうつもりであったのか、よくわからないところがあります。『国語問題五十年』をみると、現代かなづかいへのきりかえは鴎外からの指示だったことがわかります。鴎外は国語調査会の会長でもあったのでした。
いま現代かなづかいをわたしたちがつかえているのは、森鴎外のおかげといえなくもないわけです。そうおもうと、鴎外はよみにくいとせめるのは酷なお話かもしれません。