Shiki’s Weblog
梅棹忠夫さんの文章作法をもとにした日本語スタイルガイド
2022/06/12,一部改訂: 2022/06/17
はじめに
梅棹忠夫さんのかく文章は、とても特徴的です。漢字がすくなくて、よみやすいのです。梅棹さんは、和語の用言(動詞・形容詞・形容動詞)をひらがなでかきます。
けれども、和語の用言をかなでかけば、よみやすい文章になるわけではないようです。むしろ、日本語は漢字をまぜないと文章がよみにくくなる。そう指摘している本がよくあります。ひらがながおおくて、それでもよみやすい文章とゆうのは、もとからよみやすいのです。
梅棹さんは、どんなことに注意して文章をかいていたのでしょうか。そのことにふれている本が何冊かあります。今回は、それらをまとめて、日本語スタイルガイドとしてまとめてみました。
梅棹忠夫さんの文章作法をもとにした日本語スタイルガイド
梅棹さんは、作文にあたってのこころがけから、こまかな技法まで、いろいろな注意点をあげられています。そこで、このスタイルガイドでは、注意点を3つのグループにわけてまとめました。ひとつひとつのルールは、梅棹さんがのべられたことをもとにしています。ルールのもとになったことばは、このあとの節でまとめます。
基本的なかんがえかた
- 自分でなっとくのゆく文章をかく。
- よんだひとにわかってもらえるようにかく。
- 耳で聞いただけで意味がわかるようにこころがける。
- できるだけ自然な日本語になるように気をつける。
文(センテンス)のかきかた
- ことばをえらぶ。
- やさしいことばで正確に自分がいいたいことをあらわすことばをさがしてつかう。
- むずかしい漢語や同音異義語のおおい漢語はさける。
- 文脈のいりくんだ複文や、ながい重文をかかないようにする。
- 単文の連続でかくようにこころがける。
- ひとつの文のながさが50字をこえたら、よみにくくなっていないか確認する。
- 読点があってもなくても意味がかわらないようにかく。
- ひとつの文を「(修飾節)-……-(修飾節)-(述部)。」のように分解したとき、修飾節はながいものからしめす。
表記法
- 代名詞,副詞,接続詞,感動詞,助動詞,助詞は、かながきにする。
- 常用漢字表の範囲内の漢字でかくようにする。
- 漢語はことばえらびをしたうえで漢字でかく。
- 固有名詞については、それ以外の漢字ももちいる。
- 和語の用言(動詞・形容詞・形容動詞)には漢字をつかわない。
- 一音の動詞で、「きる」(切る、着る)や、「にる」(煮る、似る)のように、意味が判別しにくいときは、漢字をつかうことも許容する。
- 漢語がもとになっている用言は、「かんたんな」(簡単な)や「ひじょうな」(非常な)のように国語化していれば、かなでかく。
- ひらがなばかりつづいてよみにくくなったら、あいだに読点をうつ。
梅棹さんが文章をかくうえで注意されていたこと
このスタイルガイドをまとめるのにあたって、参考にした部分をまとめます。
梅棹さんは、「わたしの文章作法」[2]のなかで、つぎのような点に注意して文章をかいているのべています。
- よんだひとにわかってもらえる(ようにかく)
- 自分にわかる、なっとくがゆく文章をかく
- できるだけ自然な日本語になるように気をつけ(る)
- 文脈のいりくんだ文(センテンス)はなるだけかかないように(する)
- ことばえらび。やさしいことばで正確に自分がいいたいことをあらわすことばをさがす
- 当用漢字表の範囲内におさめる努力を(する)
- 訓読の用言においては漢字をつかわない
- 句読点のうちかた。すこし句読点がおおい
- かなばかりつづいて、たいへんよみにくくなるケースもでてくる(ので)
「漢字はやめたい」[3]のなかでは、つぎのようにかかれています。
- 耳で聞いただけで意味がわかるようにこころがけ(る)
- 漢語は漢字で書き、和語はかなで書く
- むつかしい漢語はさけ(る)
- 和語の場合、「きる」(切る、着る)や、「にる」(煮る、似る)のように、意味が判別しにくいときは、漢字をつかうことも許容(する)
- それ(常用漢字)以外の漢字は、固有名詞のほかはつかいません。
『梅棹忠夫 語る』[5]のなかでは、つぎのようにはなされています。
- 複文というのはわかりにくい。単文の連続でかかんと。
説明
つかいかたを補足したほうがよいようなルールについて、まとめておきます。
できるだけ自然な日本語になるように気をつける。
梅棹さんは、日本語の表記にローマ字がつかわれるようになることを期待していました。梅棹さんの個人的な文章のなかには、ローマ字でかかれた文章や、ひらがなだけでかかれた文章もあります。そのことは『知的生産の技術』[1]などでもふれられています。
ベトナムは、日本とおなじように漢字の影響をうけていた国です。けれどもいまはローマ字をつかって文章をかいています。日本語もローマ字にできるだろうか。可能か不可能かということであれば、不可能ではないのはたしかそうです。けれども、そうした変化がいますぐ日本でおきることはなさそうです。
いまは、漢字が壁になっています。NHKなどがひらがなだけのツイートをすると、ものすごい数の批判のコメントがつくのをみます。減災のためにうまれた「やさしい日本語」に対しても、おおくの批判がありました。梅棹さんがひらがなのおおい文章をかくことを批判された学者のようなひともいました。もちろん、やさしい日本語の文章をよみやすいと評価するひともたくさんいます。
いずれにしても、つかっていることばを急激に変化させるのは、むずかしいことです。いまわたしたちがつかっている現代かなづかいも、原案を国が実施にうつすまでには数十年もかかっています。梅棹さんも、本をかくとにきは、つぎのようなものはつかわれませんでした。
- ローマ字表記
- わかちがき
- 漢語のひらがな表記
- 和語の体言のひらがな表記
「わかちがき」は、かなばかりつづいてよみにくくなったときに、読点ではなく、英文のように空白をいれる方法です。
「できるだけ自然な日本語」とゆうのは、「ひろく、うけいれられそうな範囲内でなるべく進歩的な日本語」という意味でとらえるとよいかもしれません。梅棹さんは、漢語でも国語化していれば、本のなかでも漢字をひらいてかかれていました。
むずかしい漢語や同音異義語のおおい漢語はさける。
むずかしい漢語は、ほかのことばにおきかえます。かわりのことばは、類語辞典などをひいてさがします。
漢語をおおくつかっていると、文章の漢字使用率がたかくなっていきます。漢字使用率をチェックして、たかすぎれば漢語をほかのことばになおしていくのもひとつの方法です。漢字使用率を20%以下にできると、紙面をみたときの印象は梅棹さんの文章にちかくなります。梅棹さんの文章はページによっては10%をきっていることもあります。
ひとつの文のながさが50字をこえたら、よみにくくなっていないか確認する。
これは、梅棹さんがこういわれたわけではありません。じっさいには、単文の連続でかくようにこころがけているので、「ひとつの文があまりながくなりません」といわれています。あくまで、結果としてひとつひとつの文がみじかくなっているというわけです。
けれども、わたしたちが作文をするときは、なかなか、そうもいきません。文の文字数をチェックすることで、まずい文をみつけられることがよくあります。NHKの「NEWS WEB EASY」では、文を文字数に応じて色づけしながら原稿をかいているようです。[9]
このブログの原稿は、「ふりがなパッド」をつかってかいています。「ふりがなパッド」にも、かくそばから、ながい文を色づけして表示する機能があります。
読点があってもなくても意味がかわらない文にする。
梅棹さんはご自分の文章について、「すこし句読点がおおい」とのべられています。これは、ひらがながつづいてよみにくくなったときに、読点をつかわれるためです。「ほとんど気にせずに読点を打っている」とも、いわれていたようです。読点をわかちがきの空白のかわりにつかわれているわけです。
日本語の読点のやくわりを説明するのは、なかなかむずかしいことのようです。「息つぎ」の位置と説明するひともいれば、文の構造をしめすものだと説明するひともいます。
丸谷才一さんは、つぎのようにのべられています。
究極的に重大なのは、たとへ句読点をすべて取払つてもなほかつ一人立ちしてゐる頑丈な文章を書くことなのである。(『文章読本』, p328)。
読点の位置で意味がかわるような文は、そもそもよい文ではないのです。耳で聞いただけで意味がわかるような文章では、そのような読点をつかうことはできません。
丸谷さんは、句読点がいらないらくらい、がんじょうな文章をかくひととして、紫式部や谷崎潤一郎といったなまえをあげます。大作家は、ながい一文もがんじょうなままかくことができます。わたしたちに、そんな大作家のようなことができるだろうか。そんなふうに、いっしゅん、とまどいます。けれども、わたしたちのかく文章は、みじかい文の連続でつくられた文章です。一文のながい文章をかくわけではありません。そうなると、つぎの技法がつかえます。
ひとつの文を「(修飾節)-……-(修飾節)-(述部)。」のように分解したとき、修飾節はながいものからしめす。
文をかきおえたら、「(修飾節)-……-(修飾節)-(述部)。」ように文を分解して見なおしてみます。「てにをは」にあやまりがないか。節のならべかたに問題はないか。見なおしてみると、文をなおしたほうがよいことに気づくことがあります。
この技法そのものはふるくからしられている技法です。いまでは「公用文作成の考え方(建議)」にも、このようにかくように記載されています。
おもしろいのは、野内良三さんが『日本語作文術』のなかで、「正順で書けば読点は不要」とかかれたことです[6]。「正順」とは「修飾節はながいものからしめす」とゆうことです。読点があってもなくても意味がかわらない文をかくためにも、この技法はべんりなのです。
代名詞,副詞,接続詞,感動詞,助動詞,助詞は、かながきにする。
このことは、当用漢字表の「使用上の注意事項」にもかかれています。当用漢字表の時代に国語をならったひとたちにとっては、ある意味、あたりまえのルールとゆうことになります。
さいきんはIMEにまかせて変換をしていると、「決して」のように副詞まで漢字でかいてしまいがちです。梅棹さんは、そのような漢字のつかいかたについては、めいかくに批判をされています。
漢語がもとになっている用言は、「かんたんな」(簡単な)や「ひじょうな」(非常な)のように国語化していれば、かなでかく。
日本語のなかには和語だとおもっていることばでも、じっさいには漢語がもとになっていることばがあります。そうした漢語の変化を「国語化」とか「日本語への同化」といいます。このルールは、漢語が国語化してできた用言は和語とみなしてもよい、とゆうことです。
「簡単」とゆう漢語は、大正時代に国語化したことばのようです。それまでは「簡単の」とか「簡単なる」のようにつかわれていました[8]。
ほかにも、「信じる」,「感じる」といった動詞は、むかしは「信ずる」,「感ずる」のようにかいていました。この変化は「簡単な」などよりもずっとさいきんの日本語の変化です[4]。梅棹さんはこうした動詞を漢字でかかれていました。けれども、いまでしたら、「しんじる」、「かんじる」のように、かながきしても違和感はあまりありません。
さいきんでは、学者のようなひとたちのなかで、「関する」なども「かんする」とかなでかく先生がいます。日本語の変化にどれくらい敏感であるかとゆうのは、ひとによる部分がおおきいものかもしれません。
おわりに
以上で、今回のスタイルガイドの説明はおしまいです。梅棹さんは、どんなふうに文章をかいていたのだろう。梅棹さんのようにかいてみたい。もしそんなふうにおもわれているひとがいらしたら、参考にしてみてください。わたしも、はじめて梅棹さんの文章をみたときには、とてもおどろきました。どうしたらこんなふうに文章をかけるのだろうとおもったのです。それからもう5年ほど、そんなことをよくかんがえていました。
今回、あらためて、梅棹さんの文章作法をスタイルガイドとしてまとめてみて気づいたことがあります。それは、ルールのおおくは、文章をかくときのこころがまえや、作文のしかたに関するものであるということです。
ひらがなのおおいよみやすい文章をかくためには、作文の基礎力もひつようなようです。いまは、作文のしかたの教科書として『日本語作文術』[6]がよく推薦されています。理科系のひとで、『理科系の作文技術』だけをよんで、おしまいにしているひとがいるでしょうか。あたらしい一般的な作文の教科書もぜひよんでみてください。いまの文章がとてもよみやすくなっていることにおどろかれるかもしれません。
それから、令和4年に「公用文作成の考え方(建議)」とゆう文章が文化審議会からしめされました。公用文をかくときのあたらしい手びきとしてつかわれることが期待されている文章です。梅棹さんのかかれた文章は公用文ではありませんが、よく共通しているところがあります。どちらも、おおくのひとにつたわるようにかく、とゆう点ではおなじなのです。
こどものころの国語の授業とゆうと、漢字をおぼえたり、慣用句をおぼえたり。そんなことばかりでつまらない。そんな感想しかおぼえていないひともおおいように感じます。そうした国語はひとびとにつたわらない。そうゆうことが、東日本大震災などをきっかけにふたたび認識されるようになってきています。
あたらしい公用文では「国民に直接向けた文書における表記の平易化」ということもいわれています。ほんらいは、国語審議会というところでそういうことを議論していくはずでした。それが、いろいろとあって、国語がむずかい方向にしばらくあともどりしていたのです。いまは、あらためて梅棹さんのように平明化の方向へすすもうとされているひとたちがたくさんいます。
ところで、表題にある「文章作法」とゆうのはかわったよみかただとおもいます。桑原武夫さんの本に『文章作法』とゆう本があります。梅棹さんに「高校生にもわかる文章を書け」とおしえられたのは桑原さんだったようです。[7]
参考資料
- 梅棹忠夫(1969)『知的生産の技術』(岩波書店)
- 梅棹忠夫(1978)「わたしの文章作法」(『梅棹忠夫著作集 第11巻 知の技術』,中央公論社,pp309~314)
- 梅棹忠夫(2003)「漢字はやめたい」(『日本語の将来 ローマ字表記で国際化を』,日本放送出版協会,pp249~250)
- 田野村忠温(2009)「サ変動詞の活用のゆれについて・続 : 大規模な電子資料の利用による分析の精密化」(日本語科学,25巻)
- 小山修三(2010)『梅棹忠夫 語る』(日本経済新聞出版社,p43)
- 野内良三(2010)『日本語作文術』(中央公論新社,p54)
- 藍野裕之(2011)『梅棹忠夫 未知への限りない情熱』(株式会社 山と渓谷社,p317)
- 永澤済(2011)「漢語「-な」型形容詞の伸張 : 日本語への同化」(東京大学言語学論集,31巻)
- 田中英輝, 熊野正, 後藤功雄, 美野秀弥(2018)「やさしい日本語ニュースの制作支援システム」(自然言語処理,25巻1号)