Shiki’s Weblog
藤原時平とひらがな
2019/12/12, 2019/12/14加筆
仁徳天皇の炊煙のお話
ことしは消費税の税率があがりました。そのこともあってか、仁徳天皇の炊煙のお話がニュースでときどきでてきました。炊煙のお話は、『日本書紀』や『古事記』にかかれています。
四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰「朕登高臺以遠望之、烟氣不起於域中、以爲、百姓既貧而家無炊者。朕聞、古聖王之世、人々誦詠德之音、毎家有康哉之歌。今朕臨億兆、於茲三年、頌音不聆、炊烟轉踈、卽知、五穀不登、百姓窮乏也。封畿之內、尚有不給者、況乎畿外諸国耶。」
三月己丑朔己酉、詔曰「自今以後至于三年、悉除課役、以息百姓之苦。」是日始之、黼衣絓履、不弊盡不更爲也、温飯煖羹、不酸鯘不易也、削心約志、以從事乎無爲。是以、宮垣崩而不造、茅茨壞以不葺、風雨入隙而沾衣被、星辰漏壞而露床蓐。是後、風雨順時、五穀豊穰、三稔之間、百姓富寛、頌德既滿、炊烟亦繁。
七年夏四月辛未朔、天皇、居臺上而遠望之、烟氣多起。是日、語皇后曰「朕既富矣、更無愁焉。」皇后對諮「何謂富矣。」天皇曰「烟氣滿国、百姓自富歟。」皇后且言「宮垣壤而不得脩、殿屋破之衣被露、何謂富乎。」天皇曰「其天之立君是爲百姓、然則君以百姓爲本。是以、古聖王者、一人飢寒、顧之責身。今百姓貧之則朕貧也、百姓富之則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。」
仁徳天皇は、百姓たちがみんなまずしく、こまっているのをみて、3年間、税金をとらなかったのだそうです。そのあいだ、仁徳天皇じしんも質素にくらしました。3年後、百姓たちがみんなゆたかになったのをみて、仁徳天皇は「わたしは、もうゆたかになったよ」といいました。そのときは、まだ大殿はこわれたままだったのですけれども。
そんなお話です。仁徳天皇は食事を用意するけむりが家々からたっているかどうかをみていたのでした。ことしは、仁徳天皇陵などの古墳群が世界文化遺産になることもきまりました。
奈良時代に『日本書紀』ができると、都の役人は『日本書紀』を勉強するようになります。『日本書紀』の講義がおわると、高官たちはそのなかの逸話にちなんだ和歌をよみました。
左大臣だった藤原時平がよんだ和歌がのこっています。
『日本紀竟宴和歌』[4]
多賀度能兒 乃保利天美禮波 安女能之多 與母爾計布理弖 伊萬蘇渡美奴留
たかとのに のほりてみれは あめのした よもにけふりて いまそとみぬる
この時平の歌は、のちに後世風の歌につくりかえられて、仁徳天皇作のうたとしてつたえられます。本居宣長が『古事記伝』のなかでその経緯を説明しています。
『新古今和歌集』[5]
みつきものゆるされてくにとめるを御らんして
仁徳天皇御哥
たかきやに のほりてみれは けふりたつ たみのかまとは にきはひにけり
ところで、『古事記』のつたえる仁徳天皇の炊煙のお話は、『日本書紀』とすこしちがいます。3年後、家々からけむりがたっているのをみて、ゆたかになり課税してもよいとおもいました。そんな感じでしょうか。『日本書紀』は、仁徳天皇がよりりっぱにみえるように、おおげさにかかれているのだと宣長はかいています。
『古事記』[6]
於是天皇、登高山、見四方之國詔之「於國中烟不發、國皆貧窮。故自今至三年、悉除人民之課伇。」是以、大殿破壞、悉雖雨漏、都勿脩理、以椷受其漏雨、遷避于不漏處。後見國中、於國滿烟、故爲人民富、今科課伇。是以百姓之榮、不苦伇使。故、稱其御世謂聖帝世也。
大和魂
時平が左大臣だったときに右大臣だったのが、いまは「天神さま」ですとか、「学問の神さま」とよばれている菅原道真です。けれども、醍醐天皇は、道真を九州の太宰府に左遷します。これは時平が道真をおとしいれたといわれていますが、真相はわからない部分もおおいのだそうです。
谷崎潤一郎は、『少将滋幹の母』のなかで、つぎのようにかいています。
勤めぎらいの平中は、宮中への出仕は怠りがちであったらしいが、本院の左大臣のもとへは始終御機嫌伺いに行った。本院と云うのは、中御門の北、堀川の東一丁の所にあった時平の居館の名で、当時時平は故関白太政大臣基経、―――昭宣公の嫡男として、時の帝醍醐帝の皇后穏子の兄として、権威並びない地位にあった。時平(これはトキヒラが本当であろうが、古くからの云い習わしに従って矢張シヘイと呼ぶことにしよう)が左大臣になったのは昌泰二年、二十九歳の時であって、初めの二三年の間は右大臣に菅原道真が控えていたゝめに多少牽制もされたけれども、昌泰四年の正月にその政敵を陥れることに成功してからは、名実共に天下の一の人であった。そして此の物語の時代にも、まだ三十を三つか四つ越したぐらいに過ぎなかった。今昔物語には、此の大臣もまた「形美麗に有様いみじきこと限りなし」「大臣のおん形音気はひ薫の香よりはじめて世に似ずいみじきを云々」と記しているので、われ/\は富貴と権勢と美貌と若さとに恵まれた驕慢な貴公子を、直ちに眼前に描くことが出来る。従来藤原時平と云うと、あの車曳の舞台に出る公卿悪の標本のような青隈の顔を想い浮かべがちで、何となく奸佞邪智な人物のように考えられて来たけれども、それは世人が道真に同情する餘りそうなったので、多分実際はそれ程の悪党ではなかったであろう。嘗て高山樗牛は菅公論を著わして、道真が彼を登用して藤原氏の専横を抑えようとし給うた宇多上皇の優渥な寄託に背いたのを批難し、菅公の如きは意気地なしの泣きみそ詩人で、政治家でも何でもないと云ったことがあるが、そう云う点では時平の方が却って政治的実行力に富んでいたかも知れない。大鏡は時平を悪くばかりは云わず、愛すべき点があったことをも伝えている中に、可笑しいことがあると直ぐ笑い出して笑いが止まらない癖があったと云うが如きは、無邪気で明朗濶達な一面があったことを證するに足りるのであるが、その一例として滑稽な逸話がある。まだ道真が朝にあって、時平と二人で政務を見ていた頃のこと、いつも時平がひとりで非道に事を処理して、道真に嘴を入れさせないので、某と云う記録係の属官が一計を案じ、或る日文案を文挟みに挟んで左大臣の前に捧げて行き、それを時平に渡そうとするはずみにわざと音高く放屁をした。時平は途端に噴き出してわッは/\腹を抱え始めたが、いつ迄たっても笑いやまず、体がふるえてその文案を受取ることが出来ないので、その間に道真が悠々と事務を執り、思いのまゝに裁断を下した、と云うのである。
時平は又なか/\勇気があった。道真の死後、その霊が化して雷神となって朝臣に讐をすると信ぜられていた時分、或る日清涼殿に落雷して満廷の公卿たちが顔色を失った折に、時平は凜然と太刀を引き抜いて大空を睨み、「あなたは生きておられた時にも私の次の位だったではないか、たとい神になられても、此の世へ来られたら私を尊敬なさるのが当然ですぞ」と叱咤したので、その威勢を恐れたかのように、雷鳴が一時静かになった。されば大鏡の作者も、いろ/\悪いことをした大臣ではあったけれども「大和魂などはいみじくおはしましたるものを」と云っている。
こう云うと、時平はたゞ向う見ずの、お坊ちゃん育ちの餓鬼大将のようにも取れるが、案外そうでない一面もあって、醍醐帝と此の大臣とが密かに謀って世間の奢りを戒めたと云う話なども伝わっている。それは或る時、時平が帝の定め給うた制を破った華美な装束をして参内したのを、帝が小蔀の隙間から御覧になって急に機嫌を損ぜられ、職事を召されて、「近頃過差の取締がきびしいのに、左大臣たる者がいかに一の人であるとは云え、殊のほかきらびやかな装いをして参るとは怪しからぬ、早々退出するように申し付けよ」と仰せられたので、職事はどうなることやらと案じながら、こわ/″\仰せの趣を伝えると、時平は恐懼措く所を知らず、従者共に先を追わせることをも禁じ、慌てふためいて退出して、以後一箇月ばかりは堅く居館の門を閉じて引籠っていた。たま/\人が訪ねて来ても、「お上の御勘当が重いので」と云って面接せず、御簾の外にも出なかったので、漸く此の事が評判になり、世人が奢りを慎しむようになったが、これは豫め時平が帝としめし合わせてしたことなのであった。
いまは大和魂などというと十五年戦争ちゅうの軍国主義的な意味をおもいだされたりもするでしょうか。もともとは、源氏物語にでてくることばで、「対処能力」とか「政治的実行力」というような意味だったそうです。そういう能力にすぐれていたのが時平だったと『大鏡』にはかかれています。
室町時代に『菅家遺誡』という本がつくられて、「和魂漢才」ということばがうまれます。そこから、江戸時代には大和魂まで道真が発揮したようなお話にかわっていったようです。宣長は『菅家須磨記』といった偽書がひろまったことを『玉勝間 ― 松嶋の日記といふ物』で批判したりもしています。
時平のすすめた『延喜の治』では、小農民を保護したといわれます。『日本紀竟宴和歌』で仁徳天皇の炊煙のお話をえらんだ時平です。谷崎潤一郎がかいたように、いまの時平はわるくいわれすぎている感じなのでしょう。
古今和歌集とひらがな
『古今和歌集』(905年)[7]は醍醐天皇の勅命でつくられたさいしょの勅撰和歌集です。たいせつにのこされてきた、りっぱな公文書です。『古今和歌集』の選者は、つぎの4人です。
- 紀友則
- 紀貫之
- 凡河内躬恒
- 壬生忠岑
国語の教科書でならう、つぎのうたは友則のうたです。
ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ
この4人をじっさいにえらんだのは時平だったとかんがえられているようです。そのころの紀氏は「応天門の変」(866年)のあと衰退をはじめていました。貫之は、866年うまれともいわれています。
現在の応天門(平安神宮に復元したもの)
そのようななかで友則が土佐掾(国司の第三等官)に任ぜられたのは、時平の尽力があったからといわれています。後撰和歌集にふたりのうたがのこっています。
『後撰和歌集』巻第十五 [8]
紀友則またつかさたまはらさりける時、ことのついて侍りて、年はいくらはかりにかなりぬるととひ侍りけれは、四十余になんなりぬると申しけれは
贈太政大臣
いままてに なとかははなの さかすして よそとせあまり としきりはする
返し
とものり
はるはるの かすはわすれす ありなから はなさかぬきを なににうゑけむ
贈太政大臣が時平です。時平はなくなってから太政大臣の官職をおくられたので「贈」とついています。うたの名声でしられていた友則が40歳をすぎても官職につけずにいたことに、時平はおどろいたのでした。「応天門の変」は藤原氏の陰謀だったともいわれています。けれども、優秀な人物は、氏によらずにとりたてる。そんな時平のイメージがうかんできます。
現在では『古今和歌集』のうたはすべてひらがなでかかれていたと推定されています。それまでは日本の公文書につかわれる文字は漢字だけでした。それが古今和歌集のいちばんふるい写本「高野切」のうたでつかわれている漢字は、日・花・見・人・世・中だけだそうです。ここにも時平の政治的な決断、大和魂があったのではないか。そうかんがえられているようです。常用仮名の漢字だけでかいたうたをあつめた大伴旅人の「梅花の宴」(730年)から175年後のできごとでした。
古今和歌集には時平の和歌が2首えらばれています。
朱雀院のをみなへしあはせによみてたてまつりける
左のおほいまうちきみ
をみなへし あきののかぜに うちなびき こころひとつを たれによすらむ(230)
題しらす
左のおほいまうちきみ
もろこしの よしののやまに こもるとも おくれむとおもふ われならなくに (1049 )
ふたつめのうたは、後撰和歌集の伊勢とのつづきでしょうか。
『後撰和歌集/巻第十二』[9]
女につかはしける
贈太政大臣
ひたすらに いとひはてぬる ものならは よしののやまに ゆくへしられし
返し
伊勢
わかやとと たのむよしのに きみしいらは おなしかさしを さしこそはせめ
時平の再評価
何百年もかけてかな文字だけの文学を発展させてきた飛鳥、奈良、平安時代。その歴史のなかで、時平は欠くことのできない人物のようにおもわれます。それをふたたび和歌にまで漢字をまじえてかくようになったのはいつごろからなのか。ここ数年、研究がすすんでいるようです。『勅撰集の書式と表記の関係――新古今集以降の古筆切を対象として――』(2014)といった論文があります。
道真は天神さまとしておまつりされているのに、時平のあつかいはどうなのだろう。そんなふうにおもって、すこししらべてみました。千葉県には時平をおまつりしている神社がいくつかあるそうです。習志野市の菊田神社。船橋市の二宮神社。さらに「時平神社」といわれる神社がほかにも4社あるようです。