2015年2月22日日曜日

新キーボード プロジェクト? - 親指シフトについて

角川アスキー総研の最新の調査で親指シフトの利用者が現在でも1.25%もいる、ということが一部で話題になっています。調査前はそのほかの0.52%の中に紛れるような印象をもたれていたからでしょうか。エスリルのニューキーボードNISSEだけで見ると、これまでの出荷ベースでは親指シフトとTRONかなの刻印タイプが約30%を占めています(下図参考)。新JIS配列や刻印はないものの月配列を使われている方なども合わせると、1/3強の方がかな入力を使われている様子です。キーボードの利用時間の極端に長いユーザー方の中では、かな入力は今でも実際にはよく使われている可能性が高そうです。

NISSEのキーキャップの刻印の割合

NISSEは、現在はほぼ入手不可能なオリジナルのTRONキーボート(μTRONキーボードではない方)からの移行を想定していましたので、パーソナルメディアのTK1やtanomi.comのスケルトロンST-2000から移行される方がTRONかなを使われる場面がありそうかな、という想定はありました(NISSEよりさらに前にあった、エスリルでキーボードを作って欲しいという要望はそういった方たちからのものでした)。NISSE発売後は実際にBTRON仕様のOS超漢字と合わせて使っています、といった声を頂くこともあります。ところが実際に販売をはじめると、それを上回る数のNISSEのご注文を親指シフトユーザーの方から頂く結果になっています。

親指シフトに関しては、今でもローマ字入力よりも1.7倍速い(※1)、場合によっては2倍速い、といった説明がされていたり、それを素直に信じてローマ字入力から乗り換えたのにローマ字入力のときの速度にさえなかなか追いつかない、といったことをブログなどに書かれている例も見かけます。

※1 親指シフトを使うと、打鍵数で比較すると(同時打鍵方式なのでシフトキーは数えない)、ローマ字入力の約1/1.7の打鍵数で済むことが知られています。

NISSEでかな刻印ありのタイプを求められる方は、それまでにもかな入力を使われていた方がほとんどですが、中にはNISSEではじめてかな入力を使いはじめられたという方もいらっしゃるようです。そこで、今回は親指シフトに関して設計をリードされた神田泰典さんのサイト(http://www.ykanda.jp/)から、当初の設計意図からその後の評価までご参考のために簡単にまとめておこうと思います。

人間に相応しいかな入力方式の考察 (1978)


http://www.ykanda.jp/oasgif/nin-1.jpg, 情報処理学会第19回全国大会.

1978年の親指シフトを使ったワープロOASYSの開発にあたっての基礎研究についてまとめた論文で、その設計目標として以下のようなものが挙げられています。
「専門オペレータ以外の者が文章を考えながらタイピングするのに適している」
「入力速度が手書きより速いこと」
「初心者でも親しみを持てること」
「疲労が手書きより少ないこと」
一番の目標は、一般家庭にはほとんどキーボードが普及していなかった当時の日本で、初めてキーボードに触る人ような人でも手書きよりも楽に容易にワープロで文章を作成できるようにすることであったことが伝わってくるものです。

漢字入力法の人間工学的検討(1978)


http://www.ykanda.jp/input/kanji/kanji.htm, 情報処理学会第19回全国大会.

これは神田さんご自身の文ではありませんが、当時のワープロへの期待感などが伝わってくるものです。そのひとつとして、
「企業は新入社員が即日仕事ができることをのぞんでいる」
と言う点が挙げられています。当時は新入社員は入社時点ではキーボードに触ったことがない、という想定でいて、小学校の時からタイピングを教えたりしている現代とは状況はかなり違います。同時期の森田さんのM式キーボードの開発にあたっても、養成期間が短いこと(日本語だから速く入力できる―ワープロ時代に問うM式キーボード, p.133)、という点は同様に強調されています。

OASYS100発表のニュースリリース (1980)


http://www.ykanda.jp/txt/oa100ana.txt

OASYS100の発表前日に作られたニュースリリースの中では、その特徴として以下の2点が最初に挙げられています。
「日本語文章が誰でも容易に入力できる親指シフトキーボード」
「単語辞書は10万語まで登録可能」
最初期にワープロを導入された方たちの中には速記の反訳(速記符号を元に戻すこと)にワープロを用いようということで導入された方たちがいらして、実際に親指シフト方式よりも「辞書にない単語を2万語までユーザが自由に作成して登録できる」(他社製品よりも優れていたとのこと)という部分が魅力であった、というお話を聞くことがありました。速記者の方はたとえば「外務省」を「がいむしょー 』と書くかわりに「がむょ」と書いておいたりすることがあって、こう言った略語を「がむょ」→「外務省」のように大量に辞書登録できるOASYS100はそれだけでも魅力的であったようです。

補足: 現在ではこういった略語の部分はIMEの予測変換(サジェスト)機能によってかなり補えるようになってきています。

日本語電子タイプライタ「OASYS100」開発の経緯 (1980)


http://www.ykanda.jp/txt/himitsu.jpg, 日本電子計算機ニュース

神田さんご自身が「オアシスユーザにはおすすめしたい資料です。」とされているものです。
「速さは第一義ではない。速いに越したことはないが、速く入力するのが目的ではない。」
「慣れると、かな漢字混じり文で50文字/分の速度で入力できる。」
後年、ローマ字入力よりも1.7倍速い、2倍速いという形で宣伝されていくことになってしまいますが、本来そういうものではなかったという点には注意が必要でしょう。

親指シフトキーポード (1980)


http://www.ykanda.jp/oasgif/oya-2.jpg, 情報処理学会第20回全国大会.

親指シフトの最初の学会発表とのこと。
「6人が(略)練習を1か月行った。(略)打鍵速度は(略)80〜180字/分である。」
カナタイプライターのオペレーターの方で速い方は300字/分にも達すること、裁判所の速記官が利用されているソクタイプキーボード(2年間の研修後320字/分以上)といったものがあることについては神田さんも認識されていたように思われます(ソクタイプについてもときどき記述されています)。ただキーボードに触ったことがない「新入社員が即日仕事ができること」という当時の要件には、どちらも適していないということも当時は自明であったように思います。

日本語情報処理のために (1982)


http://www.ykanda.jp/jef/bit/bit06.jpg, 雑誌bit

雑誌bitは、月刊ASCII等と合わせて読むようになると、だいぶコンピューターにはまってきた感じがする雑誌のひとつだったでしょうか。
「入力速度は普通の人で、50〜60文字/分くらいはできる。(略)手書きの2倍くらいで、実用上十分である。」
「速記の反訳に使用しているプロは、大体150〜180文字/分にも達する。」
発売から2年といった時点の状況として、ふつうの人はそれほど速く打てるようにはなっていないけれども「人間に相応しいかな入力方式の考察」で目標とした内容は十分に達成できているというご判断であったことがわかります。またOASYSが速記者の方たちには、かなりうまく浸透していったことも窺えます。

ワープロコンテスト (1982)


http://www.ykanda.jp/wp82.htm

富士通の最初のワープロコンテストについてまとめられています。
「このコンテストは富士通がメーカ色を出さない形で行ってきたものです。」
(第1回の優勝者の)「速度は10分間で892文字でした。」
「子供を連れたお母さんが参加しました。」
ワープロコンテストの優勝者はいつも親指シフト、という形で後年営業に利用されてしまう結果になってしまっていますが、当初の目的はワープロの普及のためであって、プロの方が速度を競い合うようなためのものではなかったことが窺えます(それならはじめからもっと速い専門のオペレーターの方を出場させていたはずです)。

後年はプロの方が参加するようになってきて入力速度もかなり上がっていったようですが、M式の森田さんから『他方式によるワープロ・コンテストのチャンピオンは、この略語を千個〜二千個も暗記している由であるが、略語併用の場合の入力速度は、本来の入力方式の良さを示すことにはならない』(日本語だから速く入力できる―ワープロ時代に問うM式キーボード, p.135)と指摘されるようなこともあり、神田さん自身のサイトでもそういった方向での記事は載せられていないように見えます。特に速記者の方たちはOASYSを非常に高度に使いこなされていたわけですが、反訳作業では文章はもう出来上がっているのですから『専門オペレータ以外の者が文章を考えながらタイピングする』という当初の一番の目的とは違うということもあったのかもしれません。

親指シフトキーボードの評価 (1985)


http://www.ykanda.jp/txt/hikaku.txt

1985年、家庭用ワープロの競争が激しくなり、低価格化が進んできた時期の「ワープロらくらく速習法」という本(OASYS用の本のようで実物は見たことがありません)での比較的科学的な実験結果を紹介されています。
「ワープロ未経験者の20~30才の女性を10名選んで、テスト」
この実験では「ワープロ未経験者の20~30才の女性を10名」の場合、練習時間20時間の段階では親指シフトが50字/分、ローマ字が32字/分で1.6倍近く確かに差が付いているのですが、その後さらに練習時間が増えていくと両者の差は小さくなっていきます。このテストから言えることは、初心者が手書き程度の速度で打鍵できるようになるまでの練習時間は、親指シフト方式がローマ字入力やJISかな入力に比べて短い、というものでしょう。実際親指シフトはそういうことを目指して作られたものなのですから、うまく作られていたわけです。ただ、現在言われるような1.7倍速いというのは単純な打鍵数の比較であって、実際の入力に要する速度に関してはそういう結果は示されていないという点には注意が必要です。

まとめ


「文章を考えながらタイピングするのに適している」という目標を持って開発された親指シフトが、作家の方などにとても高く支持されていることは現在でもときどきニュースになります。書いては直し、という作業をするときにふつうの人が一番良く使うのはBackspaceキーですが、親指シフトキーボードではこれがJISキーボードのコロンの位置(右手小指のホームポジションの右隣)にあります(※2)。プログラマーだとそれはちょっと困る、ということにもなりそうですが、日本語の文章を書くために必要なものは何か、という工夫が親指シフトにはほかにも何点もみられます。

※2 NISSEのNicola(親指シフト)タイプも、これまでのところすべてコロンの位置がBackspaceになっているF型で出荷しています。

一方、設計当初の想定は大人になって初めてキーボードに触る、というものであった点については注意が必要でしょう。こどもの頃からパソコンに触っていて、大人になってローマ字入力で150字/分といった速度になっている方もふつうにいる、という今の状況を当時はほとんど想像していなかったように思われます。そういう方が親指シフトに変更して1.7倍速くなり、神田さんの言われるプロの方の180文字/分よりも速い255字/分が短期間で可能、というようなことはまったく検証も想定もしていないのに、「1.7倍速い」といった宣伝用の言葉だけが独り歩きしてきてしまっている印象は強くあります。

親指シフトのほとんどの人にとって良い所は、かな文字換算で同じ入力速度なら、指の負担はローマ字入力の1/1.7程度で済むこともあって楽、といった部分になるでしょうか。キーボードを利用しているときの筋作業については、手指の動的筋作業(dynamic muscle work)と前腕などの静的筋作業(static muscle work)とに分けられていますが、エルゴノミックキーボートが対処しようとしているのは後者です。タイパーの方たちのように高速に指を動かされているような場合に手指の負担を軽くするような効果はエルゴノミックキーボートにもあまり見込めません。ですのでエルゴノミックキーボートを購入されるほど長時間日常的にタイピングするような人にとっては、打鍵数自体を減らす親指シフト方式はとても優れたものになっている(そのためやはりシフトキーの打鍵に親指を使うTRONも合わせるとNISSEでの割合は30%にもなっている)、ということのように思います。

これからかな入力をはじめよう、という検討をされている方のご参考になれば、ということで今回は終わりです。